加藤棕盧
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加藤 棕盧(かとう そうろ、1790年(寛政2年) - 1851年9月18日(嘉永4年8月23日))は、江戸時代後期の儒学者。安芸国(現:広島県)出身。名は景纉(かげより)。字は君緒。太郎三、太郎助、株鷹とも称する。別号は肯堂。
経歴
[編集]1790年(寛政2年)広島藩士加藤定斎の長男として生まれる。父定斎は藩儒であり広島藩校学問所(現:修道中学校・高等学校)の教授を務めた人物であった。棕盧も藩校学問所に入学、頼杏坪らに師事し国学や画を修める。父の跡をついで藩儒となり藩校学問所の教授を務める。頼杏坪らと「芸藩通志」を執筆・編集し、故事の調査や古文書の解釈にあたった。文人画家としても多くの作品を残す[1]。1851年(嘉永4年)8月23日逝去[2][3]。