劉粛 (元)
劉 粛(りゅう しゅく、1188年 - 1263年)は、金朝およびモンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は才卿。
概要
[編集]劉粛は威州洺水県の出身で、1218年(興定2年)に金朝の科挙(詞賦)を受けて進士の地位を得、尚書省令史の地位を与えられていた。このころ、盗みを働いたとの罪状で極刑とされようとした者たちを冤罪であると主張して減刑し、皇帝の怒りを買ったが、張天綱の[1]
その後、蔡県令となったが、このころ賦税を牛の多寡によって決めていたため、民が牛を隠して農耕に用いられないという問題があった。劉粛が赴任すると、家畜を多く所有していることよる賦税を止めたため、農耕も進み民の暮らしも豊かとなった。また淮河を渡って南宋領に逃れる民の対処に当たった後、戸部主事の地位に遷った[2]。
金朝の滅亡後は東平地方を支配する漢人世侯の厳実を頼り、行尚書省左司員外郎、行軍万戸府経歴の地位を与えられた。このころ、東平地方では歳ごとに丁絲と包銀を取り立てられた上、また綿10万両・色絹万匹を納めるという重い税負担が課せられていたため、劉粛は後者のみをやめさせるよう取り計らったという[3]。1252年(壬子)、皇族のクビライによって邢州安撫使に抜擢され、クビライから公私にわたって頼りにされたという[4]。
1260年(中統元年)、4代皇帝モンケ・カアンが死去してクビライが即位すると、真定宣撫使の地位を授けられた。1261年(中統2年)には左三部尚書・兼商議中書省事となったが、1262年(中統3年)に職を辞し、1263年(中統4年)に病により76歳にして亡くなった[5]。
劉粛は温厚な性格で、かつて諸家の易説を集めて『読易備忘』と名付けたこともあった。息子には礼部侍郎となった劉憲・大名路総管となった劉愻、孫には翰林学士承旨となった劉賡がいる[6]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻160列伝47劉肅伝,「劉肅字才卿、威州洺水人。金興定二年詞賦進士。嘗為尚書省令史。時有盜内藏官羅及珠、盜不時得、逮繫貨珠牙儈及藏吏、誣服者十一人。刑部議皆置極刑、肅執之曰『盜無正贓、殺之寃』。金主怒、有近侍夜見肅、具道其旨、肅曰『辨析寃獄、我職也、惜一己而戕十一人之命、可乎』。明日、詣省辨愈力。右司郎中張天綱曰『吾為汝具奏辨析之』。奏入、金主悟、囚得不死」
- ^ 『元史』巻160列伝47劉肅伝,「調新蔡令。先時、県賦民以牛多寡為差、民匿不耕、肅至、命樹畜繁者不加賦、民遂殷富。瀕淮民有竄入宋境、籍為兵而優其糧、間有帰者、頗艱於衣食、時出怨言曰『不如渡淮』。告者以謀叛論、肅曰『淮限宋境、一水耳、果欲叛、不難往也、口雖言而心無実、準律当杖八十』。奏可。継擢戸部主事」
- ^ 安部 1972, p. 119.
- ^ 『元史』巻160列伝47劉肅伝,「金亡、依東平厳実、辟行尚書省左司員外郎、又改行軍万戸府経歴。東平歳賦絲銀、復輸綿十万両・色絹万匹、民不能堪、肅贊実奏罷之。壬子、世祖居潜邸、以肅為邢州安撫使。肅興鉄冶、及行楮幣、公私賴焉」
- ^ 『元史』巻160列伝47劉肅伝,「中統元年、擢真定宣撫使。時中統新鈔行、罷銀鈔不用。真定以銀鈔交通于外者、凡八千餘貫、公私囂然、莫知所措。肅建三策一曰仍用旧鈔、二曰新旧兼用、三曰官以新鈔如数易旧鈔。中書従其第三策、遂降鈔五十万貫。二年、授左三部尚書、官曹典憲、多所議定。未幾、兼商議中書省事。三年、致仕、給半俸。四年、卒、年七十六」
- ^ 『元史』巻160列伝47劉肅伝,「肅性舒緩、有執守。嘗集諸家易説、曰読易備忘。後累贈推忠贊治功臣・栄禄大夫・上柱国・大司徒・邢国公、諡文献。子憲、礼部侍郎。愻、大名路総管。孫賡、翰林学士承旨」