前野長宗
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 前野右京 |
主君 | 前野長康→前野忠康 |
氏族 | 下津前野氏 |
父母 | 父:前野吉久、母:不詳 |
兄弟 | 前野兼宗、前野長宗 |
子 | 前野左門、前野藤左衛門 |
前野 長宗(まえの ながむね)は、戦国時代の武将。通称は右京で諱は長宗[1]。前野長康に仕え、長康の切腹後はその婿養子の前野忠康に仕えた。前野伝左衛門の叔父にあたる[2]。
概要
[編集]下津前野氏の前野吉久の次男として前野村に生まれる[1][2]。下津前野氏は、宗家九代綱宗の弟の守久から始まる分家で、その名の通り下津に住したことに由来する[2]。織田伊勢守家に仕え、その滅亡後は織田弾正忠家の織田信長の旗下となった[2]。兄の前野兼宗は信長に従って永禄4年(1561年)8月の三河国梅ヶ坪城攻めで討死した[2]。長宗は下津ではなく一族本拠の前野村八屋敷の東曲輪に住し、宗家十四代前野長康に仕えた[3]。
元亀元年(1570年)4月、主君長康に従い越前国まで出兵した。金ヶ崎の戦いでは、加屋場口において手傷を被るも、怯まず二間柄の大身の槍を打ち振り前野党の一陣を務めた[3]。前野義詮がこれに助勢し、覚束なく弱っている長宗を見受けて後方へ退くよう勧めた[3]。しかし、気の強い長宗は手傷をものともせず、連続して懸け来る朝倉勢を突き崩したという[3]。長康は自身の日記『五宗記』に、その奮戦ぶりは一段と見事な働きであったと記している[3]。
翌年の元亀2年(1571年)5月6日、浅井長政勢が箕浦へ出撃した際は、長康に従って横山城から打って出て中入りし、浅井軍を押し退けたという[4][5]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、前野長康隊2,000に属して宇喜多秀家(総大将、豊臣秀家)率いる第二軍に参軍し、生還した[3]。
文禄4年(1595年)8月19日、主君長康が関白豊臣秀次に連座して切腹すると、その婿養子の前野忠康に属し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで忠康が戦死すると、上坂勘解由とともに近江国へと逃れたという[3]。しかし前野吉康が語るには、その後行方不明となったという[3]。