凌文淵
凌文淵 | |
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プロフィール | |
出生: | 1876年(清光緒2年) |
死去: |
1944年(民国33年)5月 中華民国北平市 |
出身地: | 清江蘇省泰州 |
職業: | 政治家・画家・書家・経済学者 |
各種表記 | |
繁体字: | 凌文淵 |
簡体字: | 凌文渊 |
拼音: | Líng Wényuān |
ラテン字: | Ling Wen-yüan |
和名表記: | りょう ぶんえん |
発音転記: | リン ウェンユエン |
凌 文淵(りょう ぶんえん)は清末、中華民国の政治家・書家・画家・経済学者。北京政府の要人。名は庠だが、字の文淵で知られる。号は直支、植支。
事跡
[編集]公立両江師範学堂を卒業。1903年(光緒29年)に大阪で開かれた内国勧業博覧会を視察している。1909年(宣統元年)、江蘇省咨議局議員に当選し、張謇らの立憲運動に参加した。
1912年(民国元年)1月、南京臨時参議院議員に当選し、立憲党に参加した。翌年4月、衆議院議員に当選し、5月、進歩党に加入している。1917年(民国6年)8月から1927年(民国16年)まで、北京政府財政部の参事や首席参事をつとめ、主に外債委員会において任にあたった。その間の1922年(民国11年)8月に財政部常務次長代理・署理に昇進している。また11月には、逮捕された王寵恵臨時内閣財政総長・羅文幹の暫時代理として、12月には汪大燮臨時内閣・王正廷臨時内閣の暫時代理として、それぞれ財政総長をつとめた。
北京政府崩壊後は政界を離れ、東方絵画協会幹事、国立芸術専門学校教授などをつとめた。日中戦争(抗日戦争)時期には、日本軍の占領地域にとどまったが、親日政府からの任官要請はすべて拒絶している。梁は在野にあって教育・芸術の振興に励み、北平美術学校校長をつとめたほか、中国各地の学校で芸術教育にあたっている[1]。1944年(民国33年)5月、死去。享年69。
芸術家としての作風
[編集]書家としては、初期は柳体(柳公権の書体)であったが、後に張遷碑の書体に近づいた。絵画は徐青藤を模範とし、梅・蓮の花の絵に独特の風格があると評される。その力量は、陳半丁・陳師曽(陳衡恪)・斉白石とともに、京師四大画家と称されるほどであった。これら書画の才能の一方で、経済学者としても優れ、『中国経済学』、『財政金融学』、『中国における塩政の最近の状況』(原題『中国塩政最近状況』)等の著書がある。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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