冷泉持為
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時代 | 室町時代中期 |
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生誕 | 応永8年(1401年)[1] |
死没 | 享徳3年9月1日(1454年9月22日) |
改名 | 亀若丸(幼名)→持和→持為 |
別名 | 下冷泉持為、正字:持爲 |
官位 | 正三位、権大納言 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 下冷泉家 |
父母 | 父:冷泉為尹 |
兄弟 | 為之、為員、持為 |
子 | 春芳院、政為、男子 |
冷泉 持為(れいぜい もちため)は、室町時代中期の公卿・歌人。権大納言・冷泉為尹の子。官位は正三位・権大納言。下冷泉家の祖。
経歴
[編集]応永8年(1401年)、冷泉為尹の次男(または三男)として誕生。
後小松天皇や4代将軍・足利義持の寵愛を受け、「持」の偏諱を受け持和を名乗る(後に持為と改名)。応永29年(1422年)正五位下、永享元年(1429年)従四位下に叙せられる。しかし6代将軍となった足利義教には忌避され、後小松院崩御後の永享6年(1434年)に出仕を止められた[2]。嘉吉元年(1441年)に義教が暗殺されると復帰して、翌嘉吉2年(1442年)従四位上に叙せられる。
左近衛中将を経て、文安5年(1448年)に従三位に叙せられて公卿に列す。翌文安6年(1449年)2月に参議に任ぜられ、改元して宝徳元年閏10月27日に侍従を兼ねた。宝徳2年(1450年)正三位・播磨権守に叙任。宝徳3年(1451年)権中納言に任ぜられた。しかし、宝徳4年(1452年)権中納言を辞任して治部卿に転じる。享徳3年(1454年)8月より病となり、権大納言に任ぜられるが、その翌日に病を理由に出家。9月1日、54歳で薨去した[1]。
人物
[編集]歌人として活躍し、門弟に一条兼良や木戸孝範、中原康富等がいる。嘉吉3年(1443年)、兼良主催の前摂政家歌合ほか、多くの歌合への出詠が知られる。家集に『持為卿詠草』、『為富集』、著書に『古今和歌集解』、『古今和歌集抄』がある。
官歴
[編集]※以下、註釈の無いものは『公卿補任』の記載に従う。
- 応永29年(1422年)正月5日:正五位下に叙す[3]。
- 永享元年(1429年)-月-日:従四位下に叙す[3]。
- 嘉吉2年(1442年)正月5日:従四位上に叙す[3]。
- 文安5年(1448年)正月11日:従三位に叙す。
- 文安6年/宝徳元年(1449年)2月16日:参議に任ず。閏10月27日:侍従を兼ぬ。
- 宝徳2年(1450年)3月29日:播磨権守を兼ぬ。-月-日:正三位に叙す。
- 宝徳3年(1451年)3月26日:権中納言に任ず。
- 宝徳4年(1452年)2月17日:権中納言を辞す。-月-日:治部卿に任ず。
- 享徳3年(1454年)8月16日:権大納言に任ず。8月17日:出家。9月1日:薨去。享年54。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年