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内藤綱秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

内藤 綱秀(ないとう つなひで、? - 天正18年(1590年)?(生没年未詳))は、日本戦国時代安土桃山時代武将後北条氏の譜代の家臣。仮名は孫四郎。官途名は左近将監、のちに大和守を受領した。

北条氏家臣・内藤氏の分家の出身とされる。先代は内藤康行(やすゆき、北条氏康の家臣)で、この養子という形で本家筋を継いだとされている。子に内藤直行(なおゆき)がいる。康行・綱秀・直行の1文字目は後北条氏の当主から偏諱を与えられたものと思われるが、「康」が3代氏康、「綱」が2代氏綱の1字と、逆転している理由は不明(綱秀が養父・康行より年長であるか、氏康から「綱」の字を下賜されたかのいずれかが考えられる)。

康行から継承した相模国津久井城主を後北条氏滅亡まで務めた。また、津久井衆筆頭でもあった。この津久井領は甲斐と国境を隣接するため、重要な地域だった。これからも分かるように後北条氏の信頼は厚かった。

豊臣秀吉による小田原征伐では津久井衆を率いて、4月に中郡白根に駐屯する豊臣勢に攻撃している。その一方で5月に津久井城普請、6月には相模の諸地域の麦の刈り取りを指揮している。6月に徳川軍の攻撃を受け奮戦するも、後北条氏の支城が次々と攻略される中でついに落城。その後の消息は不明である(ともに滅亡したともされる)。

嫡男の直行は北条氏直から1字を与えられてその名を名乗り、松田憲秀の娘を妻に迎えている。小田原征伐時も岳父・憲秀とともに行動し、出奔の謀議に関わっている。その後謀反する予定があったのか、処罰されたのかは不明だが、氏直が高野山に蟄居するときは直行も同行している。

参考文献

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  • 歴史群像シリーズ14 真説戦国北条五代 早雲と一族、百年の興亡』(1989年、学習研究社) ISBN 405105151X