内藤新一郎
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内藤 新一郎 | |
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生誕 |
1857年5月4日 日本 出羽国最上郡新庄城下 (山形県新庄市) |
死没 |
1935年12月6日(78歳没) 日本 京都市左京区下鴨松ノ木町 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1877年 - 1914年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
内藤 新一郎(ないとう しんいちろう、1857年5月4日〈安政4年4月11日[1][2]〉- 1935年〈昭和10年〉12月6日[2][3])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[1][4]。
経歴
[編集]出羽国最上郡新庄城下三本橋[3](山形県最上郡新庄町沼田三本橋を経て現新庄市沼田町)で新庄藩士内藤秀升の三男として生れ、1879年(明治12年)5月に家督を相続した[1]。
1875年(明治8年)兵学寮(陸軍士官学校前身)に入り、1877年(明治10年)4月、陸軍歩兵少尉に任官[1][4]。西南戦争に歩兵第9連隊小隊長として出征[3]。日清戦争では第3師団高級副官として従軍[2]。
1902年(明治35年)5月、歩兵大佐に進み歩兵第38連隊長に就任[4]。日露戦争に出征し南山の戦いから奉天会戦まで転戦[2]。1905年(明治38年)3月、陸軍少将に昇進し歩兵第26旅団長となり、樺太占領に従事した[2]。
歩兵第14旅団長、近衛歩兵第2旅団長を経て、1912年(明治45年)2月、陸軍中将に進み下関要塞司令官に就任[2][4]。1912年(大正元年)12月に待命となり、1914年(大正3年)1月、予備役に編入された[2][4]。
その後、京都市左京区下鴨松ノ木町に居住し、1935年12月、持病のため死去した[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』1915年。
- 『時代文化記録集成』第28号、時代文化研究会、1936年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。