内藤政順
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 寛政8年2月15日(1796年3月23日) |
死没 | 天保5年8月21日(1834年9月23日) |
改名 | 亀之進(幼名)、政順 |
戒名 | 海上院明山居士 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の光明寺 |
官位 | 従五位下右京亮、備後守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 日向延岡藩主 |
氏族 | 内藤氏 |
父母 |
父:内藤政韶 養父:内藤政和 |
兄弟 | 政順、愛、政恵、松平直寛継室、善姫 |
妻 | 正室:井伊直中の3女・繁子 |
子 | 養子:政義 |
内藤 政順(ないとう まさより)は、江戸時代後期の大名。日向国延岡藩の第6代藩主。官位は従五位下・右京亮、備後守。延岡藩内藤家宗家11代。
略歴
[編集]寛政8年(1796年)2月15日、第4代藩主・内藤政韶の長男として江戸にて誕生。幼名は亀之進。
文化3年(1806年)に先代藩主・内藤政和が若死にしたため、その跡を継ぐこととなった。蝋・和紙・菜種などの生産にも力を注ぎ、物産方役所や紙方会所を開設し、専売制を強化した。一方で自らの倹約には熱心ではなく、当時延岡に滞在した佐藤信淵から批判を受けたとされる。文化9年(1812年)、宮崎神宮の社殿を造営した。
天保5年(1834年)8月21日に39歳で死去した。嗣子がなく、繁子の実弟で養嗣子・政義が跡を継いだ。法号は海上院明山居士。墓所は神奈川県鎌倉市の光明寺。
政順の没後、髪をおろし充真院と称した繁子は、紀行記である「五十三次ねむりの合の手」、「海陸返り咲ことばの手拍子」、「三下りうかぬ不調子」、「午のとし十二月より東京行記」、延岡の日常を記した随筆である「色々見聞きしたる事を笑ひに書」など多くの著を残した。
系譜
[編集]父母
正室
- 繁子、允姫、充真院 ー 井伊直中の三女
養子