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兵糧丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

兵糧丸(ひょうろうがん)とは、日本戦国時代から江戸時代にかけて使われていた丸薬状の携帯保存食である。『万川集海』など忍術書に素材や製法が記載されており、異称や類似の丸薬として飢渇丸(きかつがん)や水渇丸(すいかつがん)がある。栄養補給のほか、精神を安定させる作用がある生薬も含んでいた[1]

概要

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忍者が登場する時代小説時代劇で目にすることが多いほか、現代では、伊賀流忍者の祖地である旧伊賀国を含む三重県に所在する三重大学が学術的な研究や再現に取り組んでいる[1][2]。長い歴史がある携行食の一つであり、忍術流派によっては飢渇丸(きっきつがん・きっかつがん)とも表記することもあるが、別のものを指すこともある[3]。一般的に忍者が食べるものとして知られているが、実際には忍者に限らず一般の兵士も用いていた。

材料および製造法

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武将や忍者の家々によって材料や製造方法が異なり、固定されたものはない。名称も地域や家伝によって差がある。また、家によっては内容が秘伝とされて明らかになっていないものも多い。

主に以下のものが含まれる。

炭水化物として

タンパク質、海洋性ミネラル、動物性ビタミン類、油脂成分として

植物由来ミネラル、ビタミン類、食物繊維、油脂成分として

これらの粉末またはペーストを一種類から数種類混ぜる。非常に一般的であった製法は、穀物粉に各種栄養成分の整った鰹節やにぼし粉などの魚粉を入れるものであった。

さらに添加物として以下の物を加える。

矯味剤 混ぜ合わせる材料によっては臭みがある魚粉など栄養は豊富だが風味に不協和音が生じ食べにくい場合がある。その場合矯味剤によって風味を整えることもある。

これらにより味を整え、つなぎとする。材料としてニンジンも一部で使われていたが、実際にはトチバニンジン等が中心であり、デンシチニンジンオタネニンジン類はあまり使われることはなかった。こうした配合のもとに材料を混合し、こねて小さい球状にまとめる。

兵糧丸はカロリーの摂取に重きが置かれている。携行でき、非常食になることから、軍用レーションあるいはスナックバー (菓子類)、半生タイプのダイエットクッキーの原型と見ることもできる。

『老談集』の兵糧丸のレシピ

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山本勘助著とされている『老談集』に記載されている兵糧丸のレシピが記載されている[3]

飢渇丸

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飢渇丸(きっきつがん・きっかつがん)は『万川集海』にレシピが記載されている。兵糧丸に比べて、持久型の携帯食品として分析されている[3]

水渇丸

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水渇丸(すいきつがん・すいかつがん)は以下の材料を調合した、兵糧丸と共に用いる亜種食品の一つであり、潜伏時・走行時・移動時などの喉の渇きを抑えるために使われた。唾液の分泌を促すため、梅干をベースに調合され、現代ののど飴チューイングガムを栄養豊富にしたものにあたる[3]

兵糧丸・水渇丸いずれも共に流派や年代、その土地で取れる作物によって様々に調合の仕方に違いがある。たとえば保存方法の中でも重要である乾燥法ひとつにしても含まれる栄養成分の特性を考慮して丸薬を日干し(日光の紫外線による殺菌やビタミンD前駆体であるエルゴステロールの増加を促す)で乾燥させるか風通しのいいところで陰干しビタミンCビタミンB群ナイアシン葉酸などのビタミン類やポリフェノールをはじめとする栄養成分を保持して)乾燥させるのか、あるいは煙などでいぶして燻煙(殺菌)するのかといった違いである。

主な配合には以下の材料が用いられた。

こうした物質の数種粉末に以下を加える。

変わり味噌玉

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変わり味噌玉は湯を注いで溶く、口に含んでかじるだけで時間が取れない時でも手軽に栄養摂取と食事が取れるよう開発された食品である。

名称として味噌玉や変わり味噌玉、変わり玉、など呼び名は地域により様々に異なっている。芋がら縄にも類似がみられる。

配合例には以下のような物がある。

こうした配合は陣中食とも重なる具揃えも多い。このような味噌玉は、地元で取れる食材や保存食品を利用して作られた。時にはそれらの味噌玉を、酢味噌にしたり焼酎を混ぜ込む事で日持ちするよう工夫したものもあった。これらはインスタント味噌汁の原型と見て取れることもできる。

摂取方法 

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これらの携行食品は忍者達が隠密行動の際に携帯したとされる。兵糧丸1 - 3粒、水渇丸は1 - 2粒ずつで一食分であり、これを一日二回ないし三回摂取する。ただし摂取数量は丸薬の大きさによる。兵糧丸の場合は地域によって丸めて団子状にする大きさが親指大やピンポン玉位から握り飯ぐらいまでまちまちである。これは携行の便と摂りやすさを考慮し、満腹感が得られるよう工夫を加えた結果であった。親指大のものは一日30粒ほど摂取する。

忍者達は通常、飲料水に関しては水筒を持参していた。当時の日本では汚染の少ない良質な水質の河川井戸湧水が多く散在しており、暴風雨地震など水が濁るような災害時、戦闘や逃走時、また隠密行動中など、よほど緊急性や隠密性がない限りは手軽に水分を摂取できた。

彼らの着用した衣類、柿渋で染めた柿衣には除菌能力があった。柿渋色は時に桧皮色とも混同され、桧皮着(ひわだぎ)とも呼ばれた。また僧衣にも使われた墨衣は元来鉄漿で染めたものが多く、同様の効果と用途があったという説がある。水の飲用にあたり、これら衣類の布地で漉す、手ぬぐいなど目の細かい木綿布で漉してからを漬け置く、ほか煮沸などを施した。

現代の菓子としての兵糧丸

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全国に菓子としての兵糧丸が販売されている。これは昔から存在した兵糧丸のレシピをベースに現代風にアレンジしたもので、土産物としての色合いが強い。

地域単位で地域振興の為に、地域の菓子製造業と行政が協力しているケースも見られる[4][5]

脚注

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参考文献

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  • 山本勘助, 馬場信勝『老談集 単行本』誠秀堂、1985年、ISBN 978-4915459108[要ページ番号]

関連項目

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