尺振八
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(共立学舎から転送)
尺 振八 | |
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誕生 |
1839年9月16日(天保10年8月9日) 武蔵国江戸佐久間町(現・東京都千代田区神田佐久間町) |
死没 |
1886年11月28日(47歳没) 静岡県賀茂郡熱海村(現・熱海市) |
墓地 | 青山霊園(東京都港区) |
職業 | 英学者、教育者、官吏 |
国籍 | 日本 |
代表作 | 『斯氏教育論』(1880年) |
子供 | 秀三郎(養子) |
尺 振八(せき しんぱち、1839年9月16日〈天保10年8月9日〉 - 1886年〈明治19年〉11月28日)は江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の洋学者、教育者。旧幕臣。英学校「共立学舎」創設者。
来歴
[編集]江戸佐久間町(現・東京都千代田区神田佐久間町)生まれ。父は高岡藩医・鈴木伯寿。中浜万次郎、西吉十郎に英語を学ぶ。安政末年(1860年)に尺を名乗る[1]。文久元年(1861年)、幕府に出仕し、同年の文久遣欧使節に福澤諭吉らと翻訳方として同行[2]、続いて文久3年(1863年)の横浜鎖港談判使節団[2]にも同行。明治元年(1868年)、神戸のアメリカ公使館で通詞を務め、江戸開城後は横浜に移り英語塾を開く傍ら、アメリカ公使館の通詞を務めた。この年の9月から11月の3ヶ月間、旧幕府軍脱走兵の伊庭八郎を横浜の自宅に匿っている。
明治3年(1870年)に共立学舎を両国に創設した[3]。その後、共立学舎は、自由民権運動闘士の溜まり場と化したため、閉鎖された[注釈 1]。明治5年(1872年)に大蔵省に出仕し、翻訳局長となる。明治8年(1875年)に辞職し、英語教育に専念した。門下に島田三郎、田口卯吉がいる。明治19年(1886年)、肺結核で死亡した。死に際して、結核を蔓延させないために遺品一切を焼却するよう遺言し、Rまで編集が進んでいた英語辞書の原稿もそれに従って焼却された。
ハーバート・スペンサーの著書を翻訳した『斯氏教育論』[4]の中で「sociology」の訳語として「社会学」という言葉を初めて使用した。
家族
[編集]- 父・鈴木伯寿 ‐ 高岡藩医。上総出身、奥医師の辻元崧庵に師事し、 下総高岡藩主・ 井上氏の御典医を務めた。[5]
- 母 ‐ 伯寿の後妻[5]
- 従兄・尺兼治 ‐ 御家人。振八は幕臣になるためと昌平黌入学のために兼治の義弟となる。[5]
- 妻・キク ‐ 振八28歳、キク27歳の結婚。[5]
- 子・尺磯太郎[6][7]
- 養子・尺秀三郎(1862-1934[8]) ‐ 尺振八の晩年の弟子で教育者。振八の七回忌にキクの養子として尺家を継ぐまでは遠藤秀三郎と名乗っていた[9]。常陸国石岡藩士・曾我銈次郞の三男で、上京して漢詩人・鱸松塘の七曲塾で学んだのち、振八の共立学舎で外国語を学び、三菱商船学校から東京師範学校へ転学[9]。卒業後学習院助教を経て文部省で湯本武比古らと尋常小学読本の編纂を担当したのち、1889年にドイツへ留学し、ライプチヒ大学で3年間教育学などを学ぶ[9]。東京美術学校、東京外国語学校教授などを経て、東京振武学校教頭、大日本図書編輯所長、攻玉社中学校・高等学校校長、九段精華高等女学校校長を務めた[9]。
秀三郎家
- 妻・ゑん(埏子、1972年生) ‐ 山本直良の妹[10][11]
- 長男・尺秀実(1895年生) ‐ 妻の冨美子は浜岡光哲の孫。[12]
- 長女・イクヨ(1899年生) ‐ 清水組副社長・清水俊雄(清水釘吉長男)の妻。[13]
- 妹・鏗示(1873年生) ‐ 黒田定治の妻[14]
著作
[編集]- 著書・編書
- 『傍訓 英語韵礎』 須藤時一郎共述、共立学舎、1872年 OCLC 241298568
- 『明治 英和字典』 六合館、1885 - 1889年(8冊)
- 『明治 英和字典』 六合館、1889年合冊
- 『明治 英和字典』 ゆまに書房〈近代日本英学資料〉、1995年3月、ISBN 4-89668-911-9
- 訳書
- ハーバート・スペンサー著『斯氏教育論』 文部省、1880年4月
- アダム・スミス著『富国論』石川暎作 ; 嵯我正作 (訳)、尺振八 (閲)、経済学講習会、発兌:経済雑誌社、1884-1888年、全国書誌番号:40032120、第1巻、第2巻、第3巻。
- アダム・スミス原著『冨國論』石川暎作 ; 嵯峨正作 (訳)、雄松堂出版、1993年。復刻版全3巻
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『渋江抽斎』:新字新仮名 - 青空文庫
- ^ a b 「横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真〈杉浦譲関係文書〉」、doi:10.11501/8677899。 国立国会図書館電子展示会「近代日本とフランス―憧れ、出会い、交流」より写真1点(尺振八・松浪権之丞・田中廉太郎光儀・益田徳之進孝)
- ^ 神辺靖光「私学の性格についての研究」、私学教育研究所、東京、1966年、doi:10.11501/3032494、全国書誌番号:67001063。
- ^ 明治文化研究会(編)「斯氏敎育論 スペンサー著 尺振八 譯(明治十三年)」『明治文化全集 (教育篇)』第18巻、日本評論社、東京、1967年、415-455頁、doi:10.11501/2940154、全国書誌番号:51000494。
- ^ a b c d 英学者・尺振八とその周辺森川隆司、英学史研究11号、1979年
- ^ 明治19年の尺振八神原結花、英学史研究31号、1999年
- ^ 男爵郷誠之助君伝郷男爵記念会、1943年、p93
- ^ 尺秀三郎コトバンク
- ^ a b c d 『政治小説 出世の間道』訳者 尺秀三郎上村直己、熊本学園大学論集『総合科学』 第 23 巻 第 1・2 号(通巻 44 号)2018年
- ^ 尺秀三郎『人事興信録』初版 明治36(1903)年4月
- ^ 山本直良『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 浜岡光哲翁七十七年史 西川正治郎 浜岡翁表彰会、1929
- ^ 清水俊雄『人事興信録』第13版(昭和16年) 上
- ^ 黒田武定『人事興信録』10版(昭和9年) 上卷
関連文献
[編集]- 海後宗臣 「斯氏教育論解題」(前掲 『明治文化全集 第十巻 教育篇』 ほか)
- 海後宗臣著 『海後宗臣著作集 第七巻 日本教育史研究I』 東京書籍、1980年2月
- 中根香亭「尺振八君の伊庭八郎を救ひたる始末」(『香亭遺文』、金港堂書籍、1916年)
- 清水智恵子 「尺振八」(『学苑』第10巻第5号、光葉会、1943年5月)
- 森川隆司 「英学者・尺振八とその周辺」『英学史研究』 1979巻 11号、日本英学史学会、1978年7月 @.77-106、doi:10.5024/jeigakushi.1979.77
- 「明治初期英学者の翻訳態度 : 尺振八訳「斯氏教育論」の部分的検討」『現代英米研究』 12巻、現代英米研究会、1982年7月 p.14-40, doi:10.20802/geneiken.12.0_14
- 森川隆司著 『漱石の学生時代の英作文三点 : 幕末明治英学史論集』 近代文芸社、1993年7月、ISBN 4-7733-1748-5
- 尺次郎 「資料:『尺振八』拾遺 : 尺振八生誕150年記念」『英学史研究』 1990巻 22号 1989年10月 p.169-178、doi:10.5024/jeigakushi.1990.169
- 尺次郎著 『英学の先達尺振八 : 幕末・明治をさきがける』 1996年2月
- 鈴木栄樹 「尺振八の共立学舎創設と福沢諭吉」『史林』第73巻第4号、史学研究会、1990年7月、NAID 40001877857
- 「開化政策と翻訳・洋学教育 : 大蔵省翻訳局と尺振八・共立学舎」山本四郎編 『近代日本の政党と官僚』 東京創元社、1991年11月、ISBN 4-488-00604-3
- 「『尺振八伝』編纂の試みとその挫折 : 明治末年における尺振八の知友と門人たち」『京薬論集』第2号、京薬論集刊行会、1995年12月
- 「尺振八と福沢諭吉」(『福沢手帖』第90号、福沢諭吉協会、1996年9月)
- 越石結花 「『乙骨太郎乙日記』 の中の尺振八」『英学史研究』 1992巻 24号、1991年10月 p.87-100、doi:10.5024/jeigakushi.1992.87
- 神原結花 「明治19年の尺振八」『英学史研究』 1999巻 31号、1998年10月 p.199-206、doi:10.5024/jeigakushi.1999.199)
- 小林吉久 「英学教育 : わが国近代化の礎となった尺振八」(富田仁責任編集 『日本の『創造力』 : 近代・現代を開花させた四七〇人 3 流通と情報の革命』 日本放送出版協会、1993年2月、ISBN 4-14-009207-6)
外部リンク
[編集]- 東京大学コレクション 幕末・明治期の人物群像 - 東京大学附属図書館。肖像写真が閲覧できる。
- 国立国会図書館デジタルコレクション 憲政資料 - 杉浦譲関係文書中の肖像写真が閲覧できる。