入来院規重
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 天和2年(1682年) |
死没 | 元禄12年11月23日(1700年1月12日) |
改名 | 亀寿(幼名)→島津忠矩(初名)→入来院規重 |
別名 | 又四郎、通称:又兵衛 |
戒名 | 隆祥院殿雲山宗泊大居士 |
墓所 | 隆祥寺 |
主君 | 島津綱貴 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 都城島津家→入来院氏 |
父母 |
父:島津久理、母:入来院重頼娘 養父:入来院重堅 |
兄弟 | 万亀(夭折)、島津久龍、規重 |
子 | 養子:明雅(島津光久十七男) |
入来院 規重(いりきいん のりしげ)は、江戸時代中期の薩摩藩士。薩摩入来領主、入来院氏21代当主。
生涯
[編集]天和2年(1682年)、都城島津家・島津久理の次男として生まれる。元禄11年(1698年)、入来院氏先代当主・入来院重堅が実家の日置島津家に帰家したため、元禄12年(1699年)正月22日に藩主・島津綱貴の命で入来院家を相続して又兵衛規重と称した。
同年3月、三番組御番頭となる。疱瘡により11月23日没。享年18。遺骸は実家の都城に運ばれ、隆祥寺に葬られた。
家督は島津光久の十七男(規重の叔父にあたる)の虎助(重矩)が養子となって相続した。
参考文献
[編集]- 『入来村史』