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修允

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修 允(しゅう いん、? - 279年)は、中国三国時代武将。「脩允」とも呼ばれる。父は修則、兄弟に修湛揚州臨川郡の人[1]

生涯

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父の修則は、宝鼎3年(268年)、呉の前部督に任命され、交州刺史劉俊荊州刺史顧容らと共に交阯で暴れている反乱軍を討伐しに行き、交阯郡の都城で西晋の交阯太守楊稷と連続して3度にわたって戦ったが打ち負かされ、鬱林九真の両郡も呉から離反して西晋に属する事となった。その後、楊稷は牙門将の毛炅董元に顧容軍の駐屯している合浦郡を攻めさせ、両軍は合浦にある古城で交戦し、呉軍は大敗して修則は劉俊と共に戦死した。一説には、毛炅に斬られたという。

建衡3年(271年)、修允は大都督薛珝・交州刺史陶璜らの交阯郡を征伐する軍に付いていき、修允は常に父の仇の毛炅を殺そうとしていたが、陶璜に止められていた。毛炅はこの事について不安に感じて、先手を打って陶璜に人を派遣して修允を始末するように頼んだが、その計略は陶璜に結果的にばれてしまい、毛炅は再度城に籠る事となった。陶璜軍の攻撃により城が落ちると、毛炅は降伏することを拒絶し、大声で呉軍を罵倒した。修允が毛炅の腹を切り裂いて腸を引きずり出しても、毛炅の罵倒は止まらなかったという[2]。呉軍が西晋から交州を取り戻した後、修允は合浦太守に任じられた。

天紀3年(279年)、修允は桂林太守に任じられたが、修允は病気で広州を動けず、代わりに配下の郭馬に500の兵を持たせて桂林に派遣し、少数民族の慰撫に当たらせた。その後修允は病死したという。

修允死後、修允の軍は合浦・桂林で他の軍に分割して編入することになったが、修允の部曲は何世代も仲間を共にしてきたため、軍を分割されるのを嫌がった。また、呉帝孫晧が広州の人口を調べて厳しい政治を行おうとしたため、郭馬ら修允の部下たち(何典、王族、呉述、殷興など)は反乱に及び、それが元で呉の滅亡に繋がったという。  

参考文献

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脚注

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  1. ^ 『万姓統譜』卷六十三「脩允臨川人合浦太守」
  2. ^ 華陽国志