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依田伊織

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

依田 伊織(いだ いおり、天和元年(1681年3月12日-明和元年(1764年3月17日)は、江戸中期の神道学者である[1][2]

別名:本来は五十嵐氏で、(いみな)は貞鐘(さだかね)、伊織は(あざな)で、通称は定右衛門。後に徧無為(へんむい)とした。

家族

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父母:父の義正は宋山と号し、是政村(府中市是政)の井田家から養子として入婿した。(小田原北条氏の臣、井田摂津守是政の曾孫にあたる人物である。)母は府中本町きっての旧家、持高60石余の有力農家、五十嵐家の玉露荘伯と号した人の娘である。夫婦には9人の子があり、伊織は末子である[3]

兄弟:長男、次男、四男、五男は早世した。三男は出家したものの、父母に先立ち死去している。六男の真純義存法印は、上野東叡山津梁院の住職。八男の祥雲亮厳は、紀州和歌山愛宕山円珠院の住職になり、後に弟子に寺を譲って近住の僧となった。

生涯

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伊織は末子であったが、上の兄弟が早世・出家した為に両親を養う立場にあった。妻子を持つこと無く、出家せず、父母に孝養を尽くしながら神・儒・仏の学問を習得し、神学体系を起こして130巻にも及ぶ著作を残している。

両親没後の享保6年(1721年)41歳の時、府中本町の実家を離れ、兄が住職を務める上野寛永寺の子院「津梁院」に仮住まいをした。その後、谷中に「興雲閣」を建て著作活動を始めた。

伊織は両親や祖先の冥福を祈るために、寺院造立を願っていたが、当時は寺院の建立が抑止されていて、願いは叶わないまま月日が流れた。

寛保3年(1743年)の冬、衰微はしていたが10石6斗余の朱印地を有する、由緒ある府中の天台宗善明寺」の若い住職、證海が移築の申し出をして、再建することになった。伊織は祖先の館跡を提供、財を寄進し、現在の悲願山善明寺延享2年(1745年)に改建した。改建後は寺内に悲願山文庫を建立して著作・蔵書を中心に多くの人を指導した。

善明寺は安楽律院派の寺院であったが、宝暦8年(1758年)天台宗における安楽律の廃止をうけて、やむなく一向大乗寺に属することになった。この時、京都の冷泉先大納言宗家卿の別宅に仮居して著作集「大教小補」等の仕上げをしていた伊織は、急遽江戸に帰り事後対応に追われ、著作活動は終わることになる。そして安楽律復旧の訴訟を行うために、江戸にやってきた退散律僧に東京谷中の自宅を開放し、世話をした。

明和元年(1764年3月17日、持病のが悪化し、多くの弟子達に見守られながら84歳で没している。善明寺には帰葬された伊織の墓「偏無居士依田君之墓」が、両親の供養塔と並んで本堂裏にある。碑文もあり下野国(現栃木県)の大平山神社主、青木摂津守政勝の撰文で証海居士が碑銘を作っている。墓は現在、都の旧跡に指定されている[4]

伊織が没して8年後の安永元年(1772年)9月、安楽律院派は復活して、善明寺もまた證海光潤が復帰、律院となった[5]

脚注

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  1. ^ 野田 政和『府中史談 第45号 「依田伊織と天台宗善明寺」』府中市史談会、2019年5月26日、1頁。 
  2. ^ 遠藤 吉次 著、府中市立郷土館 編『府中市立郷土館紀要 第8号「依田伊織と善明寺の改建」』府中市教育委員会、1982年3月、96頁。 
  3. ^ 遠藤 吉次著『依田伊織と善明寺の改建』P.96,97
  4. ^ 『多摩の人物史』古代より現代まで800人 武蔵野郷土史刊行会、監物 軍治 著、1977年6月25日、252頁、253頁。
  5. ^ 遠藤 吉次『府中市立郷土館紀要 第8号 「依田伊織と善明寺の改建」』府中市教育委員会、1982年3月、96,97,111,112頁。 

出典

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  • 岩井 徳風『天台宗 善明寺』。
  • 野田 政和『府中史談 第45号「依田伊織と天台宗善明寺」』2019年5月。
  • 遠藤 吉次『府中市立郷土館紀要 第8号』1982年3月。

参考文献

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  • 武州府中町 悲願山善明寺『国宝 金佛阿弥陀如来の由来』1920年6月。
  • 田中 ひろみ『東京から日帰りで会える仏像参り』藝術学舎/幻冬舎2018年5月。
  • 木下 寂善『天台宗寺院大観』1921年1月。
  • 府中市文化財課 市史編さん『新府中市史 近世資料編下』2022年5月。