余闕
余 闕(よ けつ、1303年 - 1358年)は、大元ウルスに仕えた官僚の一人。字は廷心・天心。元末の混乱期に安慶城を守って陳友諒ら群雄と戦い、壮烈な戦死を遂げた事で知られる。
概要
[編集]余闕の先祖は代々河西武威に住まうタングート人であったが、余闕の父の沙剌臧卜が廬州で官職を得て、以後廬州に住まうようになった。余闕は幼くして父を亡くしたため、母を養いつつ呉澄の弟子の張恒とともに学んだという[1]。
1333年(元統元年)に進士に及第し同知泗州事の地位を授けられた。その後中央に召し出されて応奉翰林文字・中書刑部主事を務めたが、権勢家におもねるのを嫌って職を捨て家に帰ったという。しかし、このころ『遼史』・『金史』・『宋史』の編纂が進められており、編纂事業に携わるために翰林に復帰した。その後、監察御史・中書礼部員外郎などを歴任し、湖広行省左右司郎中の地位に遷った時には莫徭蛮の反乱に直面した。この時、右丞のサルバンが反乱討伐を命じられながらなかなか出立しないことを批判し、右丞が糧食が不足していることを理由として挙げると、余闕は3日で糧食を集めて右丞の出征に間に合わせたという。その後、翰林待制・僉浙東道廉訪司事などの職を歴任したが、母の死のために一時郷里の廬州に戻った[2]。
1351年(至正11年)には河南地方で紅巾の乱が勃発し、1352年(至正12年)に余闕は反乱への対処のために淮東で新設された淮東都元帥府副使・僉都元帥府事に抜擢され、兵を率いて安慶に駐屯した。兵食ともに欠乏する状況にありながら、余闕は反乱軍をよく防ぎ、屯田を行って糧食の自給を図ったという。1353年(至正13年)秋には干ばつとなったが、山神に祈祷を行うことで雨が降り、なんとか糧食を確保することができたという。またこのころ、石蕩湖の盗賊を平定し、この湖でとれる魚を運んで糧食とした。1355年(至正15年)夏、大雨によって長江が増水し屯田地も水没する危機的状況に陥ったが、余闕は大規模な土木工事を行って増水した水を堀とし、かえって城の守備を堅固なものとしたという[3]。
このころ淮東都元帥に昇格となり、また広西の苗軍5万を率いるアルスランが廬州に接近していたが、余闕はアルスランを信用せず安慶に入れなかったという[4]。その後、江淮行省参知政事に昇格となったが、それから間もなく池州の趙普勝が安慶を包囲した。余闕は激戦の末趙普勝を撃退したが、この時懐寧県ダルガチの伯家奴が戦死している。1357年(至正17年)にも再び趙普勝が攻撃をしかけ、この時も1カ月にわたる包囲戦の末撃退に成功している[5]。
同年秋には淮南行省左丞の地位を拝命したが、10月に江西地方を支配する群雄の陳友諒の攻撃を受けた。このころ、義兵元帥の胡バヤンが水軍を率いて安慶の小孤山を守っていたが、4日間にわたる攻防戦の末に陳友諒に敗れ、敗走したバヤンを追って陳友諒の軍団は11月3日(癸卯)より安慶城を包囲した[6]。余闕はまず観音橋に兵を派遣して守りを固めたが、饒州の祝寇が西門を攻めてきたためこれを撃退した。11月5日(乙巳)には敵軍が東門を登ってきたため、余闕は死士を選んでこれを撃退した。11月8日(戊申)には東西二門からの攻撃も撃退に成功したため、敵軍は攻め方を変えて攻城用具(飛楼)の準備を始めた。11月10日(庚戌)の攻防戦は夜を徹して続けられ、余闕らは休むことすらできなかったという[7]。
年が明けた1358年(至正18年)正月4日(癸卯)には東門を攻める敵軍はますます数を増やし、正月7日(丙午)には趙普勝軍が東門を、陳友諒軍が西門を、祝寇軍が南門をそれぞれ包囲し遂に安慶城は追い詰められた。孤立無援の状況ながら余闕は自ら武器を持って奮戦し、切り伏せた敵兵は数えきれず、余闕もまた十数カ所に傷を負った。しかし、奮戦むなしく城中に火が起こったことで為す術をなくしたこと悟ると、自刎して清水塘に身を投げ、妻の耶卜氏や子の徳生・娘の福童ら家族もみな後を追った。余闕の壮烈な死を知った多くの者達はその死に殉ずる道を選び、降伏せずに城楼に登って焼け死んだ者は1千を超えた。この時亡くなった者で、名を知られた者だけでも万戸李宗可・紀守仁・陳彬・金承宗・元帥府都事帖木補化・万戸府経歴段桂芳・千戸火失不花・新李・盧廷玉・葛延齢・丘卺・許元琰、奏差兀都蛮、百戸黄寅孫、安慶推官黄禿倫歹、経歴楊恒、知事余中、懐寧尹陳巨済ら18名の名が記録されている[8]。
余闕は命令に違う者を即斬する厳しさを持つ一方、部下とは甘苦を共にすることで慕われ、余闕が前線に出るときには士卒がみな盾となろうとしたという[9]。余闕と敵対した陳友諒らも余闕の忠節を讃えて屍を西門外に改めて葬り、後に天下を統一した明の洪武帝は余闕の忠節を嘉して廟を立てさせたという[10]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「余闕字廷心、一字天心、唐兀氏、世家河西武威。父沙剌臧卜、官廬州、遂為廬州人。少喪父、授徒以養母、与呉澄弟子張恒游、文学日進」
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「元統元年、賜進士及第、授同知泗州事、為政厳明、宿吏皆憚之。俄召入、応奉翰林文字、転中書刑部主事。以不阿権貴棄官帰。尋以修遼・金・宋三史、召復入翰林、為修撰。拝監察御史、改中書礼部員外郎、出為湖広行省左右司郎中。会莫徭蛮反、右丞沙班当帥師、堅不往、無敢譲之者。闕曰『右丞当往、受天子命為方嶽重臣、不思執弓矢討賊、乃欲自逸邪。右丞当往』。沙班曰『郎中語固是、如芻餉不足何』。闕曰『右丞第往、此不難致也』。闕下令趣之、三日皆集、沙班行。復以集賢経歴召入。遷翰林待制。出僉浙東道廉訪司事。丁母憂、帰廬州」
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「盗起河南、陥郡県。至正十二年、行中書于淮東、改宣慰司為都元帥府、治淮西、起闕副使・僉都元帥府事、分兵守安慶。于時南北音問隔絶、兵食倶乏、抵官十日而寇至、拒却之。乃集有司与諸将議屯田戦守計、環境築堡寨、選精甲外扞、而耕稼于中。属県灊山八社、土壌沃饒、悉以為屯。明年、春夏大饑、人相食、乃捐俸為粥以食之、得活者甚衆。民失業者数万、咸安集之。請于中書、得鈔三万錠以賑民。陞同知・副元帥。又明年秋、大旱、為文祈灊山神、三日雨、歳以不饑。盗方拠石蕩湖、出兵平之、令民取湖魚而輸魚租。十五年夏、大雨、江漲、屯田禾半没、城下水湧、有物吼声如雷、闕祠以少牢、水輒縮。秋稼登、得糧三万斛。闕度軍有餘力、乃浚隍増陴、隍外環以大防、深塹三重、南引江水注之、環植木為柵、城上四面起飛楼、表裏完固」
- ^ 植松1997,438頁
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「俄陞都元帥。広西苗軍五万従元帥阿思蘭沿江下抵廬州、闕移文謂苗蛮不当使之窺中国、詔阿思蘭還軍。苗軍有暴於境者、即収殺之、凜凜莫敢犯。時群盗環布四外、闕居其中、左提右挈、屹為江淮一保障。論功、拝江淮行省参知政事、仍守安慶、通道于江右、商旅四集。池州趙普勝帥衆攻城、連戦三日敗去、未幾又至、相拒二旬始退、懐寧県達魯花赤伯家奴戦死。十七年、趙普勝同青軍両道攻我、拒戦一月餘、竟敗而走」
- ^ 『元史』では包囲戦の始まりを癸亥のこととするが、『青陽集』の記事などにより実際には11月癸卯と改められる(張2019,107頁)。
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「秋、拝淮南行省左丞。安慶倚小孤山為藩蔽、命義兵元帥胡伯顔統水軍戍焉。十月、沔陽陳友諒自上游直擣小孤山、伯顔与戦四日夜不勝、急趣安慶。賊追至山口鎮、明日癸亥、遂薄城下。闕遣兵扼於観音橋。俄饒州祝寇攻西門、闕斬却之。乙巳、賊乗東門紅旗登城、闕簡死士力撃、賊復敗去。戊申、賊并軍攻東西二門、又却之。賊恚甚、乃樹柵起飛楼。庚戌、復来攻我、金鼓声震地、闕分諸将各以兵扞賊、晝夜不得息」
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「癸卯、賊益生兵攻東門。丙午、普勝軍東門、友諒軍西門、祝寇軍南門、群盗四面蟻集、外無一甲之援。西門勢尤急、闕身当之、徒歩提戈為士卒先、士卒号哭止之、揮戈愈力、仍分麾下将督三門之兵、自以孤軍血戦、斬首無算、而闕亦被十餘創。日中城陥、城中火起、闕知不可為、引刀自剄、堕清水塘中。闕妻耶卜氏及子徳生・女福童皆赴井死。同時死者、守臣韓建一家被害、建方臥疾、罵賊不屈、賊執之以去、不知所終。城中民相率登城楼、自捐其梯曰『寧倶死此、誓不従賊』。焚死者以千計。其知名者、万戸李宗可・紀守仁・陳彬・金承宗、元帥府都事帖木補化、万戸府経歴段桂芳、千戸火失不花・新李・盧廷玉・葛延齢・丘卺・許元琰、奏差兀都蛮、百戸黄寅孫、安慶推官黄禿倫歹、経歴楊恒、知事余中、懐寧尹陳巨済、凡十八人。其城陥之日、則至正十八年正月丙午也」
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「闕号令厳信、与下同甘苦、然稍有違令即斬以徇。闕嘗病不視事、将士皆籲天求以身代、闕聞、強衣冠而出。当出戦、矢石乱下如雨、士以盾蔽闕、闕却之曰『汝輩亦有命、何蔽我為』。故人争用命。稍暇、即注周易、帥諸生謁郡学会講。立軍士門外以聴、使知尊君親上之義、有古良将風烈。或欲挽闕入翰林、闕以国歩危蹙辞不往、其忠国之心蓋素定也。卒時年五十六。事聞、贈闕攄誠守正清忠諒節功臣・栄禄大夫・淮南江北等処行中書省平章政事・柱国、追封豳国公、諡忠宣。議者謂自兵興以来、死節之臣闕与褚不華為第一云」
- ^ 『元史』巻143列伝30余闕伝,「闕留意経術、五経皆有伝注。為文有気魄、能達其所欲言。詩体尚江左、高視鮑・謝、徐・庾以下不論也。篆隷亦古雅可伝。初、闕既死、賊義之、求尸塘中、具棺斂葬于西門外。及安慶内附、大明皇帝嘉闕之忠、詔立廟於忠節坊、命有司歳時致祭云」
参考文献
[編集]- 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101。国立国会図書館書誌ID:000002623928。
- 張琰玲『西夏遺民民文献整理与研究』鳳凰出版社、2019年
- 『元史』巻143列伝30余闕伝
- 『新元史』巻218列伝115余闕伝