佐原純一
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佐原 純一(さはら じゅんいち、天保14年4月26日〈1843年5月25日〉 - 1921年〈大正10年〉)は幕末から明治初期の数学者・教育者・官吏。旧名は内田松藏、改姓後は、佐原純吉とも。
経歴
[編集]- 1843年(天保14年)備後福山藩藩臣内田景山の子に生まれる[1]。長兄は内田雄木、次兄は奥医師内田養三。
- 1855年(安政2年)藩より長崎海軍伝習生の一人に抜擢(内田松藏名義[2])。
- 1857年(安政4年)蕃書調所の神田孝平に数学を習う。
- 1865年(慶応元年)12月 開成所数学教授手伝出役に任命(佐原純吉名義)。
- 1866年(慶応2年) 数学教授出役に。
- 1868年(明治元年)12月 三等教授に。
- 1869年(明治2年)7月 少助教(佐原純吉名義)、12月 数学所取締に。
- 1871年(明治4年)2月 大学中助教に、4月 大舎長之心得を以て舎中事務担当。
- 1871年(明治4年)7月 文部省設置(大学廃止)により文部権大助教、8月の権官廃止により文部中助教、11月 九等出仕(編輯掛)に。
- 1872年(明治5年)2月 編輯大属に(9月の編輯寮廃止迄)。
- 1872年(明治5年)10月 正院八等出仕に。
- 1872年(明治5年)共学舎(箕作麟祥の家塾)の校主となり、英語・仏語・数学・漢学・筆学を教授。
- 1874年(明治7年)12月 正院七等出仕に(翌年9月 正院諸課局廃止により廃官)。
- 1876年(明治9年)5月 文部大録に(学務課)、9月 依願免本官、文部省雇として長崎師範学校へ赴任。
- 1876年(明治9年)11月 長崎師範学校長を嘱される(1878年の同校廃止迄)。
- 1878年(明治11年)8月 文部一等属に(会計課勤務、1880年に会計局に改称)。
- 1885年(明治18年)2月 内記局詰に、12月 依願免本官、文部省御用掛(准奏任)として内記局勤務に。
- 1886年(明治19年)総務局文書課勤務に(同僚に岡倉覚三)。
- 1889年(明治22年)宮内省調度局出仕(1893年迄・従七位勲八等)。
- 1901年(明治34年)7月 「箕作麟祥君伝」に談話を寄せる。
- 1921年(大正10年)死去。[3]
親族
[編集]- 妻:スミ(安政元年生[4]・7男6女の母[5])
- 長男:佐原篤介(1874-1932)
- 次男:佐原敬二(1877-1939)[6]
- 三男:佐原義雄[7][8]
- 六男:佐原六郎(1895-1988)[11]
- 京都帝大文学部哲学科社会学専攻卒。慶應義塾大学予科兼高等部教授、戦後は同大学文学部教授(社会学・社会心理学)、普通部長兼幼稚舎長(1946-47)、大学院社会学研究科委員長を歴任、名誉教授。
- 七男:佐原忠雄(1897-????)[4]
- 早稲田大学卒、南満鉱業大阪出張所勤務。
- 長女:マス、夫:古屋恒次郎(帝国大学医科大学薬学科卒、薬学博士。千葉医学専門学校教授)
- 三女:文、夫:高尾幸次(東京帝大法科大学卒。長崎及び横浜税務監督局長)
- 五女:久、夫:石井鹿之助(東京帝大哲学科〈支那哲学〉卒。神宮皇學館教授、白峯神宮宮司)
- 六女:クニ、夫:藤田幸吉(東京帝大法科大学卒。東京古河銀行副支配人)
- 孫:尾崎忠二郎(篤介の次男:1910-????)[12]
- 孫:佐原良太郎(義雄の長男:1912-????)[13]
- 孫:佐原真(忠雄の次男:1932-2002)
訳書
[編集]- 『算術及代数』(『文部省百科全書』の一部、1879年)
- 『幾何学』(『文部省百科全書』の一部、1880年)
脚注
[編集]- ^ 国立公文書館所蔵「八等出仕佐原純一賜暇中小田県ヘ帰省届(1874年7月29日)」に「実父内田景山方」と記載。
- ^ 勝海舟『大日本創弁海軍史 一』吉川弘文館、1906年、26頁
- ^ 対支功労者伝記編纂会 編『対支回顧録』下巻、1936年(列傳・佐原篤介を参照)。
- ^ a b 帝国秘密探偵社『大衆人事録』12版・全国篇、大阪の部「佐原忠雄」の項参照。
- ^ a b 三田商業研究会 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年6月、773-774頁。
- ^ 名古屋大学大学院法学研究科『人事興信録』データベース、及び『官報』1939年8月19日彙報・官庁事項欄「官吏卒去及死去」参照。
- ^ 帝国秘密探偵社『大衆人事録』11版、1935年。
- ^ 『慶応義塾 塾員名簿』昭和17年(1942年)版の「死亡者」欄に篤介とともに掲載されている。
- ^ 『慶應義塾學報』35号(明治34年1月10日発行)の口絵には、「福澤先生の逍遙」と題して、晩年の福澤諭吉及び福澤家護衛者と佐原義雄の3人の散歩写真が掲載されている。
- ^ 川崎巳三郎「思い出すままに...故笠原千鶴さんについて」新日本出版社『文化評論』1967年6月号。戦後、笠原千鶴(1896-1967)は法政大学教授、日中友好協会会長。
- ^ 慶應義塾幼稚舎『稿本 慶應義塾幼稚舎史(戦後篇)』1965年、39頁。なお、同書では「佐原篤介の六男」と誤記。
- ^ 人事興信所『人事興信録』第19版・上、1957年。
- ^ 人事興信所『人事興信録』第17版、1953年。
参考文献
[編集]- 国立公文書館所蔵「一等属佐原純一御用掛被命ノ件」1885年12月2日(添付履歴書)。
- 大槻文彦『箕作麟祥君伝』 丸善、1907年。
- 小松醇郎『幕末・明治初期数学者群像(上)幕末編』吉岡書店、1990年。
- 平田祥彦「文部省によるChambers's Information for the Peopleの翻訳と音楽教科書編集の可能性 (1)『箕作麟祥君傳』における大槻文彦の記述と佐原純一の談話の検討を中心に」『音楽教育史研究』85-97頁、音楽教育史学会、2007年。
公職 | ||
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先代 秋山恒太郎 |
長崎師範学校長 1876年 - 1878年 |
次代 (廃止) |