佐久鯉
佐久鯉(さくごい)は長野県佐久市の近郊で養殖されたコイの名産品である。
佐久鯉について
[編集]佐久鯉の由来については2説がある。一つは、旧桜井村の臼田丹右衛門が大阪に遊び、淀鯉の美味なるを賞して、帰村の際持ち帰ったという説である。もう一つは、岩村田藩藩主の内藤正縄が文政8年(1825年)、大阪御番頭勤役の在番中、藩の窮乏する財政を援助してくれた礼物として、旧野沢村の豪農・並木七左衛門に淀鯉を「珍魚」として贈ったという説である[1]。
明治39年(1906年)、長野県はドイツゴイを水産講習所より導入し、佐久鯉との交配試験を旧野沢町に委託して佐久鯉との交配が行われた[2]。
八ヶ岳、秩父山系等を水源とする河川及び伏流水で養殖されるコイで、専用の養殖池のほか湛水期の水田や農業用の潅漑池が養殖地として利用される。水温が低いため食用に適する 30cm 程度の大きさに育つには当歳魚稚魚から3年から4年程度必要で有るため、泥臭さが少なく身の締まった食味が特徴となる[3][4][5]。かつては農家により自家消費のほか出荷用として小規模な養殖が行われていたが、近年の専門業者による養殖では、当歳魚稚魚からの養殖では採算が合わないため水温の高い茨城県や埼玉県の養殖業者から一定の大きさに育ったコイを仕入れ、半年から1年程度を佐久地域の養殖地で飼育したものも出荷されている。
佐久鯉の歴史と文化
[編集]コイ料理は平安時代の文献にも登場し古くから貴重な動物性蛋白源として利用されていた[3]。特に、海から遠い信州佐久では海産魚類の入手が難しく、日本海から信濃川に遡上するサケも下流、中流域で捕獲され尽くし、千曲川上流の佐久では漁獲が殆ど無い。そのため淡水魚のコイは祭礼や祝儀用食材として重用されていた。1886年のドイツ鯉移入以前は在来種の養殖が行われていた。
- 1592年から(文禄年間~) 野鯉養殖を試みる者ありとの言い伝え(文献等一切不明)。
- 1715年(正徳5年) 佐久の小須田家「鯉見帳」に祝物として鯉六疋が贈られたとあり。
- 1716~35年(享保年間) このころ佐久市中込地方で利根川などの鯉を移植したとの伝承あり(文献等一切不明)。
- 1746年(延享3年) 篠澤家文書に伊勢神宮神官福嶋鳥羽太夫を招いて鯉こくを提供した献立記録。
- 1772年(安永年間頃) 塚原の池田家が活魚輸送、魚卵移動など行った伝承(資料等一切不明)
- 1781年(天明元年) 桜井の臼田丹右衛門が淀川の鯉を飼育との伝承
- 1817年(文化14) 上塚原など28名が「鯉魚育方議定書」を作る。
- 1818年(文政元年) 田野口藩「鯉飼池之義御触請印帳」、桜井村「旧夫銭帖」に鯉七本の記録。
- 1819年(文政2) 池田新田源太郎ら佃屋と「一括販売の契約」結ぶ。
- 1824年(文政7) 野沢の並木七左衛門が岩村田藩主より珍魚を賜る。
- 1830~天保年間) 臼田丹衛門の大福帳に鯉価格等の記録。
- 1832年(天保3年) 志賀村芳幅池へ鯉放流の記録。
- 1833年(天保4年) 桜井村鯉餌購入したというが天保14年説もあり。
- 1842年(天保13年) 跡部村茂原猪六養鯉日記。
- 1844年~(弘化年間) 浅沼太十郎屋敷裏稲田で養鯉。
- 1846年(弘化3年) 望月本陣文書に「鯉上物」
- 1850年(嘉永3年) 跡部村「村定請印帳」に稲田養鯉盗難対策。
- 1852年(嘉永5年) 野沢並木家日記に鯉料理。
- 1857年(安政4年) 猪六日記に鯉料理。
- 1875年(明治8年) 中込、野沢の鯉が県外にも販売される。
- 1877年(明治10年) 佐久の若者が郡外で養鯉。
- 1879年(明治30年) 吾郷桜井之鯉魚養殖之図が柳澤文真により制作される。同じ頃、桜井稲田鯉が内国勧業博覧会へ出品受賞。
- 1886年(明治37年) ドイツ鯉が日本に移入される[6]。
- 1920年(大正9年) 野沢町産業組合誕生。
- 1924年(大正13年) 佐久養鯉組合誕生。
- 1925年(大正14年) 佐久鯉加工工場設置。
- 1928年(昭和3年) 鯉の軍用販路進む。
- 1940年(昭和15年) 鯉稚魚10万匹を支那へ送る。
- 1943年(昭和18年) 長野県水産試験場南佐久採苗場設置。
- 1954年(昭和29年) 五郎兵衛新田大池で採苗試験。
- 1962年(昭和37年) 長野県養鯉生産が日本一になる。
- 1965年(昭和40年) 長野県統計書から稲田養鯉の項姿消す。
- 1966年(昭和41年) 佐久鯉図柄の切手が発行される。
- 2004年(平成15年)佐久地方にコイヘルペスウイルスが入り、鯉全滅に近い被害[7]。
佐久鯉誕生の日
[編集]佐久市の老舗宿泊施設・佐久ホテルが1月6日を佐久鯉誕生の日に制定。延享3年(1746年)1月6日、伊勢神宮に鯉料理が献上されたといい、これを佐久鯉の最古の記録として、日本記念日協会が認定した[8][9]。
脚注
[編集]- ^ 大日本水産会 編『水産総覧』大日本水産会、1930年、188-189頁。doi:10.11501/3430298。
- ^ 長野県南佐久郡誌編纂委員会 編『南佐久郡誌 自然編』 下、長野県南佐久郡誌刊行会、1994年、604頁。doi:10.11501/9541058。
- ^ a b 中澤弥子、鈴木和江、小木曽加奈、吉岡由美、コイ刺身の食味と物性 : 佐久鯉と福島産鯉の比較 長野県短期大学紀要 63 (2008): 25-31, NAID 40016621269。
- ^ 佐久鯉について・歴史と特長 佐久養殖漁業協同組合
- ^ 水産物 佐久市ホームページ
- ^ 中島健次、魚病学基礎講座 (錦鯉篇) (I) 錦鯉概論 (分類学, その他) 日本獣医師会雑誌 Vol.29 (1976) No.1 P20-24
- ^ 佐久史学会「佐久」48.49合併号
- ^ “佐久鯉誕生の日”. 日本記念日協会. 2017年7月12日閲覧。
- ^ “コトバンク 佐久鯉誕生の日とは(デジタル大辞泉プラス)”. 2017年7月12日閲覧。
出典
[編集]- 佐久史学会「佐久」48.49合併号
- 橋爪孝介, 児玉恵理, 落合李愉, 堀江瑶子「鯉食文化からみた長野県佐久市における養鯉業の変容過程」『地域研究年報』第37巻、筑波大学人文地理学・地誌学研究会、2015年2月、129-157頁、hdl:2241/00124319、ISSN 18800254、CRID 1050282677519078016。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- デジタル大辞泉プラス、事典 日本の地域ブランド・名産品『佐久鯉』 - コトバンク
- 段杰「高度経済成長期以降の佐久地方における養鯉業の展開」『常民文化』第37巻、成城大学、2014年3月、31-52頁、ISSN 0388-8908、CRID 1050282677573417216。
- 橋爪孝介, 児玉恵理, 落合李愉 ほか、長野県佐久市における内水面養殖業の変容(1) 佐久鯉に着目して 2014年度日本地理学会秋季学術大会 セッションID:101, doi:10.14866/ajg.2014a.0_1
- 児玉恵理, 橋爪孝介, 落合李愉 ほか、長野県佐久市における内水面養殖業の変容(2) 水田養魚に着目して 2014年度日本地理学会秋季学術大会 セッションID:102, doi:10.14866/ajg.2014a.0_2
- 橋爪孝介, 児玉恵理, 落合李愉 ほか、鯉食文化からみた長野県佐久市における養鯉業の変容過程 地域研究年報, 2015, 37, p.129-158, ISSN 1880-0254