伝燈寺
傳燈寺(眞宗寺⇒傳燈寺) | |
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伝燈寺の大雄宝殿 | |
所在地 | 仁川広域市江華郡吉祥面温水里635 |
山号 | 鼎足山 |
宗派 | 曹渓宗 |
寺格 |
曹渓宗総本山曹渓寺(第1教区)の末寺 朝鮮三十一本山(日本統治時代) |
創建年 | 381年(高句麗小獣林王11年) |
開基 | 阿道和尚 |
中興年 | 1266年(忠烈王7年) |
中興 | 貞和宮主王氏(忠烈王の妃) |
正式名 | 傳燈寺 |
伝燈寺(でんとうじ、朝鮮語: 전등사、チョンドゥンサ)は、韓国・仁川広域市江華郡にある寺院。韓国仏教界の最大勢力である曹渓宗(大韓仏教曹渓宗)の総本山曹渓寺の末寺。日本統治時代は朝鮮三十一本山の一つだった。
歴史
[編集]伝燈寺は、高句麗の小獣林王の時代の381年(小獣林王11年)に、阿道和尚が真宗寺を創建してことをもって、伝燈寺の創建としている。ただし正史『三国史記』や『三国遺事』に該当する記事はなく、根拠は不明である。高句麗に初めて仏教が伝えられたのは372年(小獣林王2年)である。朝鮮半島における仏教の伝来は高句麗から始まったため(百済は384年、新羅は528年)、伝承がもし事実であれば、現存する朝鮮半島最古の寺院ということになる。
統一新羅時代の伝承は確認されていない。創建以降は1259年(高麗高宗46年)に境内に假闕をつくったという話が登場するまで900年近く、伝承が残っていない。武臣政権時代の1232年(高宗19年)から1270年(元宗11年)にかけて、モンゴルの侵攻を受けた高麗は江華島に王宮を移したが、1266年(忠烈王7年)に真宗寺は重修を行った。この時期、王室はモンゴルの退散を祈願して、この寺で高麗八万大蔵経の版木を彫刻させた(のちに移され、現在は海印寺に所蔵されている)[1]。
1282年(忠烈王8年)に忠烈王の王妃貞和宮主(貞和府主)王氏が重建を行ったことを契機に、真宗寺から伝燈寺に改名された。伝燈は仏法の灯を伝える意味とされる。貞和府主が玉製の燭台を寺に寄進したことに由来するともいう[1]。
李氏朝鮮の太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に伝燈寺や真宗寺の名前はなく、廃寺になったようである。 世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際も、存続を許された36寺院の中にも名前はなく、引き続き廃寺のままだったようである(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。
李氏朝鮮の光海君(在位1608年 - 1623年)の時代、大火で建物が消失し、1621年に再建された。粛宗(在位1674年 - 1720年)の時代、『朝鮮王朝実録』を伝燈寺に保管しはじめた。1726年に英祖が伝燈寺を直接訪問し、扁額を下賜した。
日本統治時代の1911年、寺刹令施行規則(7月8日付)によって、朝鮮三十本山に指定された(1924年以降は朝鮮三十一本山)。
文化財
[編集]- 建築物
- 江華伝灯寺大雄殿(宝物178号)
- 朝鮮中期
- 江華伝灯寺薬師殿(宝物179号)
- 朝鮮中期
- 伝灯寺対潮楼(仁川広域市文化財資料7号)
- その他
- 伝灯寺鉄鐘(宝物393号)
- 伝灯寺大雄宝殿木造三尊仏坐像(仁川広域市有形文化財42号)
- 伝灯寺薬師殿現王幀(仁川広域市有形文化財43号)
- 伝灯寺薬師殿後仏幀(仁川広域市有形文化財44号)
- 伝灯寺法華経板(仁川広域市有形文化財45号)
- 伝灯寺青銅水槽(仁川広域市有形文化財46号)
- 伝灯寺業鏡台(仁川広域市有形文化財47号)
- 伝灯寺須弥壇(仁川広域市有形文化財48号)
- 伝灯寺冥府殿地蔵十王像及び十王図一襲(仁川広域市有形文化財56号)
- 伝灯寺薬師殿石仏坐像(仁川広域市有形文化財57号)
- 伝灯寺大雄宝殿後仏幀(仁川広域市文化財資料21号)
- 伝灯寺講説殿阿弥陀仏幀(仁川広域市文化財資料21号)