伊東祐春
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛永12年(1635年) |
死没 | 宝永3年2月2日(1706年3月16日) |
別名 | 通称:大助、主殿 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
主君 | 徳川家綱→綱吉 |
氏族 | 日向伊東氏 |
父母 | 父:伊東祐久、母:不詳 |
兄弟 | 祐由、祐春、祐実 |
妻 | 土岐頼泰(縫殿助)娘 |
子 |
祐崇、祐連、 娘(小出英陳[1]室)、 娘(一柳直長[2]室のち離婚、のち畠山基祐[3]室) |
伊東 祐春(いとう すけはる)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府旗本。家格は表向御礼衆交代寄合。日向国飫肥藩分家である表向御礼衆交代寄合の伊東氏の祖。
経歴
[編集]伊東祐久の三男として誕生した。
明暦2年(1656年)8月15日、将軍・徳川家綱に初お目見えした。翌明暦3年(1657年)12月27日、兄の祐由より那珂郡上東村、本郷北方村のうち3千石を分地され、江戸幕府の表向御礼衆交代寄合となり、飫肥城下に居住した。寛文3年(1663年)4月、私領地の視察を許可された。これ以降、私領視察は交代寄合伊東氏の慣例となった。
元禄13年(1700年)12月5日、隠居した。長男の祐崇は飫肥藩を継いだ祐春の弟の祐実の養子となったため[4]、当家の家督は次男の祐連が継承した。享年72。