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伊号第百五十三潜水艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
艦歴
計画 大正12年度艦艇補充計画
起工 1924年4月1日
進水 1925年8月5日
就役 1927年3月30日
除籍 1945年11月30日
その後 1948年初頭 解体
性能諸元
排水量 基準:1,635トン 常備:1,800トン
水中:2,300トン
全長 100.58m
全幅 7.98m
吃水 4.83m
機関 ズルツァー[1]3号ディーゼル2基2軸
水上:6,800馬力
水中:1,800馬力
速力 水上:20.0kt
水中:8.0kt
航続距離 水上:10ktで10,000海里
水中:3ktで90海里
燃料 重油:241.8t
乗員 63名
兵装 40口径十一年式12cm単装砲1門
留式7.7mm機銃1挺
53cm魚雷発射管 艦首6門、艦尾2門
六年式魚雷16本
Kチューブ(水中聴音機)
備考 安全潜航深度:60m

伊号第百五十三潜水艦(いごうだいひゃくごじゅうさんせんすいかん)は、日本海軍潜水艦伊百五十三型潜水艦(海大III型a)の1番艦。竣工時の艦名は伊号第五十三潜水艦(初代)。

艦歴

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  • 1921年(大正10年)4月25日 - 第六十四潜水艦と命名[2]。当初は海軍大型五十一型の2番艦[3]として計画。
  • 1923年(大正12年)6月15日 - 伊号型海大三型の1番艦に計画変更[4]
  • 1924年(大正13年)4月1日 - 呉海軍工廠で起工。
    • 11月1日 - 伊号第五十三潜水艦に改名。
  • 1925年(大正14年)8月5日 - 進水
  • 1927年(昭和2年)3月30日 - 竣工。第二艦隊第2潜水戦隊第17潜水隊に編入。
  • 1928年(昭和3年)12月10日 - 呉鎮守府付属。
  • 1935年(昭和10年)11月15日 - 第18潜水隊に編入[5]
  • 1936年(昭和11年)2月27日 - 大王崎灯台沖5海里の地点で伊56と接触事故[6]
  • 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を伊五十三型に改正[7]
  • 1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に参加[8]
  • 1941年(昭和16年)12月1日 - 第4潜水戦隊第18潜水隊に属し、三亜を出航。マレー作戦に参戦[9]
    • 12月20日 - カムラン湾に到着[9]
    • 12月29日 - カムラン湾を出航するも荒天により故障。31日、カムラン湾に戻り修理を行う[9]
  • 1942年(昭和17年)2月27日 - バニュワンギ南西25浬地点付近で砲弾を積んでスラバヤからオーストラリアへ航行中の蘭タンカーベン2(BEN-2、913トン)を雷撃により撃沈[10]
    • 2月28日 - 南緯08度16分 東経108度52分 / 南緯8.267度 東経108.867度 / -8.267; 108.867のチラチャップ南方沖合で英貨物船シティ・オブ・マンチェスター(City of Manchester、8,917トン)を砲雷撃により撃沈[10]
    • 3月8日 - セレベス島スターリング湾に到着。16日に出航[9]
    • 3月10日 - 呉鎮守府部隊に編入[9]
    • 3月25日 - 入港。以後、潜水学校の訓練に従事[5]
    • 5月20日 - 伊号第百五十三潜水艦に改名。
  • 1944年(昭和19年)1月31日 - 予備艦となり潜水学校に繋留されて終戦を迎える[9]
  • 1948年(昭和23年)初頭 - 解体[11]

撃沈総数2隻、撃沈トン数9,830トン。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』421-422頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」による。

艤装員長

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  • 高須三二郎 少佐:1926年8月20日 - 12月6日

艦長

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  • 高須三二郎 中佐:1926年12月6日 - 1927年12月1日
  • 佐藤勉 少佐:1927年12月1日 - 1928年12月10日
  • 平野六三 少佐:1928年12月10日 - 1930年12月1日
  • 林清亮 少佐:1930年12月1日 - 1931年12月1日
  • 石崎昇 少佐:1931年12月1日 - 1932年11月15日
  • 加藤与四郎 少佐:1932年11月15日 - 1934年11月15日
  • 南里勝次 少佐:1934年11月15日 - 1935年11月15日
  • 清水太郎 少佐:1935年11月15日 - 1936年12月1日
  • 溝畠定一 少佐:1936年12月1日 - 1937年11月1日[12]
  • (兼)楢原省吾 少佐:1937年11月1日 - 1937年12月1日
  • 佐野孝夫 少佐:1937年12月1日 - 1938年3月19日[13]
  • 宇野(中村)乙二 少佐:1938年3月19日 - 1938年7月30日[14]
  • 安久栄太郎 少佐:1938年7月30日 - 1939年11月20日
  • 入江達 少佐:1939年11月20日 - 1941年1月31日[15]
  • 中村省三 少佐:1941年1月31日 -
  • 井筒紋四郎 少佐:1942年5月23日 -
  • 和田睦雄 大尉:1943年5月25日 -
  • 井元正之 少佐:1943年6月25日 -

脚注

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  1. ^ スイス・SULZER社。英語読みではスルザー。
  2. ^ 大正10年4月25日付 海軍内令 第152号。
  3. ^ 大正11年2月10日付 海軍内令 第46号。
  4. ^ 大正12年6月15日付 海軍内令 第232号。
  5. ^ a b 『艦長たちの軍艦史』422頁。
  6. ^ アジア歴史資料センターリファレンスコードC05035387200。
  7. ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
  8. ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
  9. ^ a b c d e f 『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』71頁。
  10. ^ a b 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』96頁。
  11. ^ 参考文献『日本海軍史』第7巻、354頁では、1946年5月に伊予灘で米軍により海没処分。
  12. ^ 海軍辞令公報 号外 第85号 昭和12年11月1日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  13. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第152号 昭和13年3月19日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073500 
  14. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第218号 昭和13年7月30日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100 
  15. ^ 海軍辞令公報(部内限)第587号 昭和16年1月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080300 

関連項目

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参考文献

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  • 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集19巻』潜水艦伊号、光人社、1997年。
  • 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9