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今戸焼 (落語)

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今戸焼 今戸人形「福助とお福」(昭和戦前・金沢春吉 作)

今戸焼(いまどやき)は古典落語の演目の一つ[1]

あらすじ

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夕刻亭主が帰宅したら女房がいない。「あの野郎。どこへ行きやがった。ははあ。こんところ、かみさん連中寄るといつもべしゃべしゃ芝居(しべえ)の話してやがったから、芝居いきやがったんだよ。あん畜生め、・・・・別に芝居行くのはかまわないけどさ、晩飯一人で火をおこす身にもなってみやがれってんだ。」「この前呼ばれた友達んとこは新婚でいいなあ。それにくらべて俺んとこは・・・止せばよかった舌切雀、ちょいとなめたが身の因果っていうけれど、えれえもん、なめちゃったねえどうも。今や悲しき六十歳だね。」と一人でぶつぶつ女房の不満をこぼしているところへ、女房が帰ってくる。

案の定近所のかみさんと一緒の芝居見物の帰りであった。すっかり膨れている亭主を見て

「あらお前さん、どうしたの。どうしたのってさ。まあ、いやだ、怒ってるの。お前さん怒ってる方が顔が苦み走っていいよ。普段でれりぼおってしてるよりよっぽどいいわよオ。」

「そんなおこってばっかりじゃ顔疲れちまうよ。どこ行ってたんだい。」

「芝居。」

とあっさり答えられ、亭主は怒る気もなくなり「そらア・・・行っちゃだめだとは言わないよ。家で待ってる俺の身にもなってくれよ。」と愚痴をこばす。だが、「あら。怒ることないじゃないの。あたしだって蔭で亭主のこと悪く言ってないわよ。」と言われるとそこは夫婦。「そうかい。だが、おめえの芝居の話きいてるとよ。元っさんは宗十郎に似ている。三吉ッあんは吉右衛門に似てますって、よその亭主のことばかりだ。物にはついでてえものがある。浮世には義理てえものがある。夫婦の仲には人情てえものがある。・・・ヘヘンてんでェ。俺は誰に似てるんだ。」

「あら、あたしだってちゃんと手を廻してますよ。」

「じゃあ誰に似てるんだ。」

「お前さん福助。」

「あの役者のか。」

「なあに、今戸焼の福助だ。」

概略

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  • この話は半分が亭主のモノローグで、語り口の巧さが出来を左右する。8代目三笑亭可楽の口演は、独自の口調で良い味を出していた。10分足らずの小品だが、芝居の雰囲気や夫婦の人情の機微が見事に描き出されている。
  • 9代目桂文治は歌舞伎を映画にアレンジして、映画好きの女房が登場する演出をとって『映画女房』と題して演じていた。サゲも「俺も映画俳優に似ているっていうからすっかり嬉しくなってね。『誰に似てんだよ。』ってたら、『お前さん、渥美清』って言いやがる。」としていた。

落語と歌舞伎

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どちらも人気のある大衆芸能として関係が深い。歌舞伎の世界を主題にしたり、芝居がかった演出をとる芝居噺が数多く東西に残されている。三遊亭圓朝、8代目桂文治初代桂文我初代桂小文治2代目三遊亭円歌8代目林家正蔵(後の林家彦六)などの落語家は芝居噺を得意とした。また「牡丹灯篭」「塩原太助」「粟田口」「眠駱駝物語」「文弥殺し」「髪結新三」など落語の歌舞伎化も多く見られる。 落語家が歌舞伎を演じる「鹿芝居」も今日さかんに演じられ、落語界と歌舞伎との交流はさかんである。

脚注

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  1. ^ コトバンク