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今井新造

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今井新造

今井 新造(いまい しんぞう、1894年明治27年〉1月4日[1] - 1962年昭和37年〉8月23日[2][3][注 1])は、大正から昭和期の実業家剣道家、政治家衆議院議員剣道七段教士[2]範士[1]

経歴

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山梨県[2][3]甲府市[4]魚町(現中央三丁目)で生まれる[1]。1924年(大正13)に分家した[5]

魚問屋業を営み、山梨モータース商会専務取締役、山梨開発協会取締役、甲府魚市場 (株) 顧問などを務めた[2][4][5]

政界では、山梨県会議員に選出され3期在任し、同参事会員も務めた[1][2][3][4]。1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙に山梨県全県区から出馬して当選し[2][3]第20回総選挙でも再選[2]。1942年(昭和17年)4月、第21回総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受けて出馬し再選され、衆議院議員に連続3期在任した[1][2][3][4]。この間、大東亜省委員、翼賛政治会政調内閣委員、大政翼賛会中央協力会議員などを務めた[2][3][4]。戦後、無所属倶楽部に所属し[2]、1945年(昭和20年)12月14日に議員を辞職した[2][6]。その後公職追放となった[7]

また剣道家として知られ、少年期に川崎善三郎小林定之に、青年期に島田喜之助、中山博道に剣道を学び、1937年(昭和12年)教士、1957年(昭和32年)七段となる[1]大日本武徳会山梨支部と山梨県警察部の剣道教師を務め[2]、甲府市連合青年団設立の際には団長に選ばれ、後に顧問となる[2][4]。1952年(昭和27年)山梨県剣道連盟創立時に会長に就任し、全日本剣道連盟設立に参画し審議員を務めた[1]

著作

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  • 『剣道雑話』今井新造、1926年5月。 
  • 『何故に斉藤隆夫君は懲罰に附せられたる乎 国民は正しく認識せよ!』森本耕、1940年2月。NDLJP:1281800 
  • 『戦時議会論戦集』今井新造、1940年5月。NDLJP:1270262 
  • 『天理教審判 衆議院議員今井新造氏四ヶ年の天理教討伐議会論戦集』七人社、1941年5月。NDLJP:3461377 NDLJP:1097584 
  • 『進めこのみち』今井新造、1941年6月。NDLJP:1266898 
  • 『勝ち抜くために』今井新造、1943年。NDLJP:1464291 

伝記

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  • 飯田文彌『今井新造』今井八重、1978年9月。 

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『山梨百科事典』増補改訂版、84頁では8月22日。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『山梨百科事典』増補改訂版、84頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』76頁。
  3. ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』74頁。
  4. ^ a b c d e f 『翼賛議員銘鑑』45頁。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』イ228頁。
  6. ^ 『官報』第5681号、昭和20年12月18日。
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿153頁。公職追放の該当事項は「推薦議員明倫会県支部長」。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 『山梨百科事典』増補改訂版、山梨日日新聞社、1989年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。

外部リンク

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