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仁礼景雄

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仁礼 景雄(にれ かげお、1885年10月10日 - 1926年8月9日[1])は日本昆虫学者

略歴

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子爵仁礼景範の四男[2][3]。1904年に軍人を目指して海軍兵学校に入るも1907年に病を得て中退[4]、静養中に東京帝国大学内田清之助矢野宗幹三宅恒方佐々木忠次郎といった碩学に昆虫学の個人教授を受け、主として朝鮮半島台湾チョウを研究。

1910年3月11日、雑誌『海軍』通信記者として7か月間の南米経由・英国渡航願が認許され、巡洋艦生駒に乗船して3月15日に日本を出航[4]、同年10月に帰国。1917年、分家して華族の籍を離脱し以後平民となる。

1919年、『昆虫世界』誌上にて、斯界の権威松村松年の『新日本千虫図解』の誤りを具体的に列挙し、その杜撰さを批判。

1920年の雑誌『海軍』15巻第1号の広告欄には、発行所である畫報社の編集部員として名前が掲載されている[5]

1926年に41歳で死去した。墓所は青山霊園

業績

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台湾産タテハチョウニレミスジ(別名ヒラヤマミスジ)などに名を残す。蒐集した昆虫標本は、歿後、東京帝国大学を経て九州大学農学部に送られた。

著作

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単著

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共著

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  • 八木誠政「本島産未記録の小灰蝶に就て」『昆虫世界』第23巻第268号、1919年、443-445頁。 

脚注

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参考文献

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  • 保科英人(著)、きべりはむし編集委員会(編)「謎の蝶類学者 仁禮景雄」『きべりはむし』第38巻第1号、兵庫昆虫同好会・NPO法人こどもとむしの会、2015年12月25日、20-24頁。 
  • 保科英人(著)、きべりはむし編集委員会(編)「補遺.蝶類學者仁禮景雄先生」『きべりはむし』第43巻第1号、兵庫昆虫同好会・NPO法人こどもとむしの会、2020年6月25日、48-51頁。 
  • 白水文庫刊行会『白水隆アルバム : 日本蝶界の回想録』白水隆文庫刊行会、2007年。