仁木友梅
仁木 友梅(にっき[1] ゆうばい、生没年不詳[2])は、安土桃山時代の武将、医師。地誌類によると通称は左京大夫、諱は義視とされる[3]。号については友梅軒、有梅軒、祐梅軒、梅軒とも[4][2]。伊賀国守護・仁木長政は兄とみられる[5][2]。
略歴
[編集]伊賀守護・仁木長政の動向が分からなくなる頃より、友梅は史料に現れる[5]。
天正4年(1576年)3月7日、津田宗及の朝会に「伊賀之にんき殿之弟梅有軒」が参加しており(『津田宗及自会記』)、「伊賀之にんき殿」は仁木長政、その弟の「梅有軒」は友梅と考えられる[6]。
天正9年(1581年)の伊賀平定後、織田信雄に取り立てられ、平楽寺を与えられた(『武家事紀』)[5]。翌天正10年(1582年)に本能寺の変が起きると伊賀で一揆の蜂起が起こり、友梅は信雄にそれを知らせて援軍を要請した[7][2]。
伊賀の隣国・大和にある興福寺多聞院の『多聞院日記』では、天正11年(1583年)10月17日条に「祐梅軒」として現れて以降、友梅の名が頻繁に見える[8][注釈 1]。『日記』からは友梅が医者として活動していることが分かり、天正14年(1586年)の1月から2月にかけて、織田信包の娘の診療のために伊勢へと赴き、病を完治させて戻ってきている[9]。
『多聞院日記』によると、友梅の養子として「仁木殿」の娘がいたが、天正13年(1585年)2月、日野の蒲生氏に預けていたところを、美人であったためか筒井定次に側室として取られたという[10]。また、友梅には天正12年(1584年)時点で13歳の二位という息子がいた[11]。天正16年(1588年)、友梅は伊勢に暮らしており、同年5月6日に「有梅軒」は伊勢から来て、5月20日に二位とともに伊勢へと帰った(『多聞院日記』)[11]。これ以後の友梅の消息は不明となる[11]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 和田 2021, pp. 29–30.
- ^ a b c d 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年、321頁。ISBN 978-4-642-01457-1。
- ^ 和田 2021, pp. 26, 215.
- ^ 和田 2021, pp. 26–27, 215–216.
- ^ a b c 和田 2021, p. 26.
- ^ 和田 2021, pp. 25–26, 215.
- ^ 和田 2021, pp. 26, 194.
- ^ 『多聞院日記 三』三教書院、1936年、311頁。
- ^ 和田 2021, pp. 27, 216.
- ^ 和田 2021, p. 27.
- ^ a b c 和田 2021, p. 216.
参考文献
[編集]- 和田裕弘『天正伊賀の乱』中央公論新社〈中公新書〉、2021年。ISBN 978-4-12-102645-3。