人間石鹸
人間石鹸(にんげんせっけん)は、第二次世界大戦中にユダヤ人強制収容所の犠牲者の肉体から工業的に石鹸が製造されたとするプロパガンダおよび都市伝説。この逸話は広く信じられてきたが、人間の脂肪から石鹸が工業的に製造されたという証拠はない。しかし、石鹸の実験的な製造の証拠はあるとされている。ヤド・ヴァシェム記念館でもナチスがユダヤ人の死体から石鹸を作ったことはなく、強制収容所の収容者を怖がらせるためにナチスが用いた風説であると公式に言及している[1][2][3]。
ただし、実際にナチスが収容者を脅すために流したという主張は根拠が無く、むしろ親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはこのような噂が広がるのを嫌がっていた。最初に噂を事実として捉えたのは、ユダヤ団体の「アグダト・イスラエル (イスラエル連合)」である(それらの内容については後述する)。また、ニュルンベルク裁判で事実のように主張して、ドイツ人を非難したのはソ連の検事スミルノフである。戦後は映画『夜と霧』などで大きく宣伝され信じ込む人も多かったが、いわゆる歴史修正主義者は一貫して否定していた。
歴史
[編集]第一次世界大戦
[編集]ドイツ人が人間の死体の脂肪を用いた製品を作っているという主張は、第一次世界大戦時のイギリスで既に見られる。1917年4月にタイムズ紙では、ドイツ人が死亡した兵士の肉体をレンダリングし、石鹸などを作っていると伝えている[4]。1925年になって、イギリス外務大臣オースティン・チェンバレンは公式に「死体工場」の話は嘘であると認めた[5]。
第二次世界大戦
[編集]戦時中、ナチスが強制収容所の収容者の肉体から石鹸を製造しているという風説が広まった。ドイツは第二次世界大戦中、油脂の不足に悩まされており、石鹸の製造を政府の統制下に置いていた。「人間石鹸」という風説は、石鹸に刻まれたRIFという刻印に由来するものであるかもしれない。RIFとは「Reichsstelle für Industrielle Fettversorgung」(帝国工業用油脂局、戦時中の石鹸および洗剤の製造・配給を担うドイツ政府の部局)の略であったが、なかには「Reichs-Juden-Fett」(帝国ユダヤ人の脂肪、ドイツ語の頭字語では「i」と「j」は置き換えることができる)と解釈するものもいた。RIF石鹸は品質の低い代用品であり、人体由来のものであれ何であれ、油脂はまったく含んでいなかった[6]。
確認できる最も早い時期の石鹸への言及は、スイス在住の正統派ユダヤ教団体「アグダト・イスラエル」のIsaac Sternbuchによる、1942年9月3日の電報に見られる。「最近入手した確実な情報によれば」「ユダヤ人の死体から石鹸と肥料が作られている」という内容で、「アメリカ合衆国の反応を引き出すためにあらゆる手段を取ってください」として政治家、報道機関を動かすこと、アルベルト・アインシュタインやトーマス・マンのような著名人に知らせることを呼びかけていた。続いて同じ9月中、世界ユダヤ人会議のスイス代表ゲルハルト・リーグナーは「匿名ドイツ軍高官の証言」として、ユダヤ人の死体から石鹸、にかわ、潤滑剤を製造する少なくとも2つの工場が存在しており、ユダヤ人の死体は1体50マルクの値がつけられているという文書を入手、これをアメリカ国務省に送っている。
ラウル・ヒルバーグは早くとも1942年10月にはルブリンでこのような話が広まっていると記録している。ドイツ人自身もこれに気づいていた。例えば親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが受け取ったある手紙には、ポーランド人はユダヤ人が「煮溶かされて石鹸にされて」いると信じていると書かれていた。手紙はまた、ポーランド人もそのような運命にあるのではないかと恐れていることに言及していた。実際に、そういう風説を知った一部のポーランド人が石鹸の不買運動を行っている[7]。ヒムラーはこの風説に苛立っていた。風説は、収容所の監視がお粗末であることを暗に示していたからである。そのためヒムラーは、収容所の全ての死体が可及的速やかに焼却されるか、もしくは埋められるべきであると強調した[8]。
ソ連のプロパガンダ担当のイリヤ・エレンブルクは自身の著書『The Complete Black Book of Russian Jewry』の中で真実としてこの話の一般的な形を記録している。
「ベルツェク収容所の他の場所は巨大な石鹸工場であった。ドイツ人は最も太った人を選び、殺した後、煮溶かして石鹸にするのである」 — エレンブルク[9]
グダニスク
[編集]アレクサンダー・ワースの著書『Russia at War 1941 to 1945』で、彼は1945年に赤軍によって解放されたグダニスクを短期間訪れ、街の郊外に人間の死体から石鹸を作る実験工場を見たと記録している。ワースは「スパナーというドイツ人博士」が稼働させていたもので、「悪夢のような光景だった。タンクの中身は液体に浸かった人間の頭や胴体だった。そしてバケツの中身は、薄片状の物質——人間石鹸——だった」と書いている[10]。
ニュルンベルク裁判では、ジークムント・メイザーというダンツィヒ解剖学研究所の助手が収容所で死体の脂肪から作った石鹸のテストをしており、40体の死体から集めた70から80 kg の脂肪で25 kg 以上の石鹸を製造することができ、完成した石鹸はルドルフ・スパナーという博士が保有していたと述べている。目撃証人には、収容所の建設に従事させられたイギリス人収容者やグダニスク薬学校毒性学部長スタニスワフ・ビツコフスキー (Stanislaw Byczkowski) 博士が含まれていた。ホロコーストの生き残りであるトーマス・ブラットはこの件を調査し、具体的な文書がほとんど見つからず、人間の脂肪から石鹸が大量生産された証拠は無いとした。しかし、石鹸を作る実験の証拠はあったとしている[11]。
戦後
[編集]「人間石鹸」の伝説は、アラン・レネが1955年のホロコーストドキュメンタリー映画『夜と霧』においてこの話を事実として扱ったことで、戦後も続いた。戦後のイスラエル人には、ナチズムのユダヤ人犠牲者を「サボン」(ヘブライ語で「石鹸」の意)と軽蔑する者もいた[12]。
ホロコーストの主流派学者は、人間の脂肪から造られたとする「石鹸神話」を第二次世界大戦の民間伝承と考えている[13]。ワルター・ラカー[14]やギッタ・セレニー[15]、デボラ・リップシュタット[16]といったユダヤ歴史家も人間から石鹸を作った話は嘘だと主張している[17]。同様の見方は、イスラエルのヘブライ大学教授イェフダ・バウアーやイスラエルのヤド・ヴァシェムホロコースト記念館のアーカイブディレクターであるシュムエル・クラコウスキーによっても支持されている[1][2][3]。1985年のツンデル裁判(英: R v Zundel)においても、ラウル・ヒルバーグはツンデル側の弁護士から人間石鹸が事実だと思うか?と質問されて、「人間石鹸の話は事実ではない。」と返答している[18]。
石鹸とは異なるが、2009年にはペルーで脂肪や人体組織を化粧品用に転売する目的で殺害したとして逮捕者が発生している。この事件はピシュタコに例えられた[19]。
関連項目
[編集]- ファイト・クラブ (映画) - 石鹸製造の過程は異なる(痩身の結果廃棄される脂肪を精製する)。消費文明に対するアンチテーゼの象徴として描かれている。
- ジャバウォッキー (漫画) - 19世紀のロンドンでは身寄りもなくキリスト教の墓にも埋葬できない売春婦などの遺体は、恐竜たちが隠れ住まう地下街で死亡日ごとに収容され、体毛がすべて抜け落ちてから石鹸に加工され、地上の人間たちに売られるという設定になっている。
出典
[編集]- ^ a b Bill Hutman, "Nazis never made human-fat soap," The Jerusalem Post - International Edition, week ending May 5, 1990.
- ^ a b "Holocaust Expert Rejects Charge That Nazis Made Soap from Jews," Northern California Jewish Bulletin, April 27, 1990. (JTA dispatch from Tel Aviv.) Facsimile in: Christian News, May 21, 1990, p. 19.
- ^ a b "A Holocaust Belief Cleared Up," Chicago Tribune, April 25, 1990. Facsimile in: Ganpac Brief, June 1990, p. 8.
- ^ Knightley, Phillip (2000). The First Casualty: The War Correspondent as Hero and Myth-Maker from the Crimea to Kosovo. Prion. pp. 105–106. ISBN 1853753769
- ^ Ponsonby, Arthur (1928). Falsehood in Wartime. New York: Dutton. pp. 102, 111–112
- ^ Waxman, Zoë (2006). Writing the Holocaust: Identity, Testimony, Representation. Oxford University Press. p. 168. ISBN 0199206384
- ^ Hilberg, Raul (1985). The Destruction of the European Jews: The Revised and Definitive Edition. Holmes & Meier. p. 967. ISBN 084190832X
- ^ UCSB History Page: Did Nazis use human body fat to make soap? Accessed December 29, 2006.
- ^ Ehrenburg, Ilya; Il'ja Grigor'jevic Erenburg, Vasilij Semenovic Grossman, et al (2003). The Complete Black Book of Russian Jewry. Transaction Publishers. ISBN 076580543X
- ^ Werth, Alexander (1964). Russia at War, 1941-1945. Dutton. p. 1019
- ^ Shermer, Michael; Alex Grobman, Arthur Hertzberg (2002). Denying History: Who Says the Holocaust Never Happened and why Do They Say It?. University of California Press. pp. 115-116. ISBN 0520234693
- ^ Goldberg, Michael (1996). Why Should Jews Survive?: Looking Past the Holocaust Toward a Jewish Future. Oxford University Press US. p. 122. ISBN 0195111265
- ^ The soap myth (Jewish Virtual Library) Accessed December 29, 2006.
- ^ Walter Laqueur, The Terrible Secret (Boston: 1980), pp. 82, 219.
- ^ Gitta Sereny, Into That Darkness (London: A. Deutsch, 1974), p. 141 (note).
- ^ "Nazi Soap Rumor During World War II," Los Angeles Times, May 16, 1981, p. II/2.
- ^ リップシュタット下 1995, p.129
- ^ Trial of Ernst Zündel in 1985
- ^ 殺害した人間の脂肪を化粧品用に密売か、南米ペルー 国際ニュース:AFPBB News - 2009年11月20日
参考文献
[編集]- デボラ・E. リップシュタット『ホロコーストの真実〈下〉大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』恒友出版、1995年11月。ISBN 978-4765250993。