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五大院宗繁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
五大院 宗繁
時代 鎌倉時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 高繁、通称:右衛門太郎
官位 右衛門尉
幕府 鎌倉幕府
主君 北条高時北条邦時
氏族 五大院氏
父母 五大院太郎右衛門尉?
兄弟 宗繁、常葉前(北条高時側室)
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五大院 宗繁(ごだいいん むねしげ)は、鎌倉時代末期の武士北条氏得宗家被官である御内人。宗繁の名は『太平記』によるもので、岡見正雄などは同時代資料にある高繁(たかしげ)の誤記であると指摘している[1]

生涯

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五大院家は得宗家の有力な御内人であり、得宗家とも近い血縁にあった。『遠藤系図』によれば、摂津渡辺党遠藤為俊の娘が北条時宗の同母弟北条宗頼に嫁ぎ、弘安2年に宗頼が没した後「五大院左衛門尉」に嫁いだとされる。この「五大院左衛門尉」は高繁とも五大院高頼とも推定できるが定かではない[2]元亨3年10月26日1323年11月25日)、円覚寺で行われた9代執権・北条貞時の十三回忌供養では、禄役人の一人として「五大院右衛門太郎高繁」の名で参列した。

宗繁の妹は北条高時の側室であり、嫡子北条邦時を産んでいた[3]。『太平記』』巻十一「五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事」によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)5月の元弘の乱における幕府滅亡時、宗繁は高時に邦時を託された[3]。『太平記』の記述では、高時は「いかなる手段を使っても匿って守り抜き、時が来れば立ち上がって亡魂の恨みを和らげてほしい」と頼んだとされる[4]

しかし、鎌倉制圧後に新田軍による北条の残党狩りが行われ、残党を捕らえた者に褒賞が与えられると知ると、「命ヲ失ハンヨリハ、此人ノ在所ヲ知タル由、源氏ノ兵ニ告テ、貮ナキ所ヲ願シ、所領ノ一所ヲモ安堵セバヤ」と考え、褒賞目当てに甥であり主君でもある邦時を裏切ることとした[3]。宗繁は邦時を言いくるめて別行動をとり、5月27日夜半に鎌倉から伊豆山へ向かわせた[3]。自らは新田義貞の執事・船田義昌に邦時の所在を密告した。『太平記』では船田も宗繁を悪人だと認識していたと描写される[3]。そのため、28日に邦時は伊豆山へ向かう途上の相模川で捕縛され、29日に鎌倉で処刑された[4]

やがて宗繁の行為は人々に不忠として非難され、これを伝え聞いた義貞も「欲心ニ義ヲ忘レタル五大院右衛門ガ心ノ程、希有也、不道也ト、見ル人毎一爪弾ヲシテ悪シカバ」と糾弾して処刑を決めたが、それを察知した宗繁は逃亡した[5]。その後も逃亡を重ねるも、宗繁の所業を知った世人は誰も救いの手を差し伸べることはなく、旧友らにも見捨てられた。最期についての詳細は不明だが、『太平記』では、「乞食のようになり果て、路傍で餓死したという風聞があった」とされる[5]

関連作品

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脚注

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参考文献

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  • 「北條貞時十三年忌供養記」(円覚寺文書)
  • 「神奈川県史 資料編2 古代・中世(2)」(神奈川県 (1973年))
  • 生駒孝臣鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について : 「遠藤系図」をめぐって」『人文論究』第52巻第2号、西宮 : 関西学院大学人文学会、2002年、ISSN 02866773NAID 110000189119 
  • 谷垣伊太雄地方と中央 : 『太平記』巻十一の構成と展開」『樟蔭国文学』第30巻、大阪樟蔭女子大学、1993年、NAID 110000229963 

関連項目

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