二階堂衛守
二階堂 衛守(にかいどう えもり、天保7年(1846年) - 慶応4年7月29日(1868年9月15日))は、幕末の二本松藩士。諱は信近。兄に「丹羽の鬼鳴海」と称された大谷鳴海「五番組銃士隊隊長」がいる。広間番、十人扶持(六人扶持とも)、二本松少年隊副隊長(幼年兵世話役/幼年兵指図役とも)。
経歴
[編集]遠祖は鎌倉・室町幕府の政所執事をつとめた二階堂氏・二階堂行通の子・藤原行信(大谷志摩守)子孫・大谷元秀[1][2]。代々二本松藩家老として藩政を司った大谷彦十郎家(家禄1400石)の出身。家老の大谷信義の次男として生まれ、普通、次男以下は他家へ養子に迎えられない限り、一生部屋住みとして終わることが多いが、衛守は藩主の信任厚く、特別に鎌倉時代の姓・二階堂を名乗ることを許された[3]。
安政6年(1859年)13歳の時、主君のお供として岡山篤次郎の父、岡山持と共に江戸へ出府している。約半年間江戸で過ごした。
戊辰戦争勃発時には既婚しており、妻は上崎氏の娘アサで、身分を超えた恋愛結婚であった。アサは麗人の誉れ高く、この時懐妊中だった。
戊辰戦争時、衛守は須賀川方面で戦っていたが、新政府軍の二本松攻撃を知り、急遽二本松に帰藩。慶応4年7月29日(1868年9月15日)、二本松少年隊の副隊長[4]として隊長の木村銃太郎と共に大壇口に出陣。その戦いで負傷し、城へ戻る事が出来ないと言う銃太郎の介錯を務めた[5]。急ぎその場に銃太郎の屍を埋め、銃太郎の首級を持って退却した。
衛守率いる残った隊士達は、大隣寺付近まで来たところで新政府軍と遭遇し、全身に銃撃を受け戦死した[6]。享年22。
人物
[編集]誠実、温厚で、事に当たっては勇猛果敢であったと言われている。身長は低いほうで、五尺一から二寸と言われている。
死後
[編集]衛守が二本松の戦いに出陣している際、妻のアサは懐妊中で、戦後、無事男の子を出産している。生まれた男の子は、父の名を継いで「衛守」と名付けられた。
参考文献
[編集]- 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)
- 二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁
- 『二本松寺院物語』平島郡三郎著
- 『二本松少年隊の話』紺野庫治著
- 『双松碑文集』二本松史談会
- 『二本松藩史』所収「黒田傳太回顧の記」
登場する作品
[編集]注釈
[編集]- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』(角川書店、1963年)
- ^ 「南北朝時代に大谷家の祖二階堂氏・二階堂行通の子・行信(大谷志摩守)が尾張国丹羽郡大谷-大屋敷村"おおやしき"を領して「大谷"おおや"」殿と呼ばれたことに由来する。」二本松市史. 第5巻 (資料編 3 近世 2) 、著者 二本松市 編集・発行、出版者 二本松市、出版年 昭和 54.2 1979-2002 第二編 25 世臣伝 一之上/604〜616頁より引用
- ^ 一説に、大谷信義に男子が出来なかったため、信義の末の弟衛守を養子に迎えた。しかしその後になって鳴海が生まれたため、大谷家を実子である鳴海に継がせ、衛守には新たに二階堂姓を名乗らせたと言う。
- ^ 実際は隊長や副長などの役名は当時はなく、幼年兵世話係、幼年兵指図役と呼ばれていた。
- ^ 自らも負傷した衛守は、銃弾の飛び交うなか三太刀目で首を落としたと言う。
- ^ ほぼ即死であった