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二階堂行光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
二階堂行光
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 長寛2年(1164年
死没 承久元年9月8日1219年10月17日
幕府 鎌倉幕府 政所執事
主君 源実朝
氏族 藤原南家乙麻呂二階堂氏
父母 父:二階堂行政
兄弟 行村行光伊賀朝光室(北条義時継室伊賀の方の母)
行盛
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二階堂 行光(にかいどう ゆきみつ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての御家人鎌倉幕府政所執事

略歴

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長寛2年(1164年)、二階堂行政の子として誕生。兄に行村がいる。

建保6年(1218年)に源実朝が右大臣となるが、『吾妻鏡』建保6年12月20日条にはその関連記事として政所始めが記されており、「右京兆並びに当所執事信濃の守行光及び家司文章博士仲章朝臣・・・」と、北条義時[1]の次席で政所の実務官僚の筆頭として登場する。

この時代は源実朝の時代であるが、行光はその母の尼将軍・北条政子の側近として様々な場面に登場する。その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の『吾妻鏡』承久元年(1219年)2月13日条に「寅の刻、信濃の前司行光上洛す。これ六條宮(雅成親王)・冷泉宮(頼仁親王)両所の間、関東将軍として下向せしめ御うべきの由、禅定二位家(政子)申せしめ給うの使節なり。」とあり、政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもその際の行光について記されている。

このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務は行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くは行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている。

承久元年(1219年)、死去。

行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が元仁元年(1224年)の伊賀氏事件で流罪となったあと、行光の子・二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する。

脚注

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  1. ^ 右京兆は右京権大夫の唐名で、このときは北条義時が該当。

出典

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  • 五味文彦 『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)
  • 細川重男 『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)