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久保登喜夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
久保 登喜夫
生誕 1921年10月2日[1]
日本の旗 日本 北海道小樽市
死没 1945年4月28日(数え25歳[2]・満23歳没)
日本の旗 日本 沖縄近海洋上
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1943年 - 1945年
最終階級 海軍少尉
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久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日[1] - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。

来歴

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1921年10月2日に北海道小樽市で生まれた[1]。実家近く(小樽市奥沢・眞栄地区)にゲレンデが多かった影響もあり、少年時代よりスキーの才能を開花させた[3]1935年に旧制小樽中学(現・北海道小樽潮陵高等学校)入学後は、校内にジャンプ台・山小屋風ヒュッテ・夜間照明など恵まれた環境を活かし、メキメキ実力を上げていった。そして4年生だった1939年の第17回全日本スキー選手権大会ノルディックスキー・スペシャルジャンプ少年の部で65.5m,60mのジャンプを見せ、総合点222.5の成績で優勝を果たした[3][4]。全日本選手権を制覇した事によって、翌年の1940年2月に開催予定だった札幌オリンピックの代表候補選手になったが、日中戦争の悪化により日本は同大会の開催権を返上していた[5]。高校時代の久保を知る人物は、手袋を編むのが得意という器用な一面も見せていたと証言している。

力強く、それでいて華麗な飛型から多くの注目を集めた。高校卒業後は札幌鉄道局(現・JR北海道)に入社したが、彼の才能に注目していた明治大学のスキー部員の熱烈な勧誘により、1941年明大に入学[3]。国内トップ選手が集まる明大の中でも実力はずば抜けていたと後輩が証言しているように、1942年の学生選手権大会ではジャンプで2位、翌1943年全日本スキー選手権大会では、ジャンプ複合で共に3位になるなど、「幻のオリンピック」となった札幌五輪代表候補だった実力の片鱗を見せつけた[3]

しかし、太平洋戦争第二次世界大戦も加えた戦局の悪化は如何ともし難くなっていた。1943年10月には学生の徴兵猶予が停止され、学徒出陣を余儀なくされた。久保も海軍予備学生として土浦海軍航空隊に配属。翌1944年海軍少尉に任官された。ジャンプの選手としての優れた空中感覚と生来の努力家であることから、操縦技術も抜群の評価を受け、やがて名古屋海軍航空隊に配属された[3][6]。海軍時代の同僚によると、飛行機を下りた後の久保は物静かで、真面目な人柄だったと評判は良かった。1945年4月になると出撃準備のため、名古屋から鹿児島第二国分基地に向けて飛び立った[6]。そして4月28日午後3時20分、神風特別攻撃隊第3草薙隊の一員として、鹿児島から沖縄近海に向けて出撃(菊水四号作戦の一環)。未帰還となった[6][7]。享年25歳(満23歳)[2]

特攻出撃直前、遺書を残しており、以下の文が綴られていた。現在この遺書は海上自衛隊第1術科学校広島県江田島市)に写しが保存されている。

四月二十八日

先日名古屋の戦友に送られ張切って飛んできました.愈愈本日沖縄に飛んで敵艦船に体当たりします。今日いろいろ作戦打ち合わせも終わり、B29の爆撃の音を聞きながら最後のこの便りをかいています。
スキーの大会でジャンプ台に向かうときとは又違った緊張振りです。母上様をはじめ皆様の分まで御奉公出来る喜びに胸は躍ります。
思えば随分と御心配ばかり掛けました。父上が亡くなってから母上と二人で寂しい毎日を過ごしましたね。それに私がスキーで家にいなかったので、母上はどんなに寂しかったかと思います。
母上より先に父上に会います。中学三年の秋でしたから積もる話も沢山あるでしょう。今戦友もいろいろと準備したり遺書を書いていますが、本当にこれが最後です。これが特攻隊員かと思われるくらい皆張切っています。
木村先輩、田中先輩、中川、澤本、星野、浅木、川崎[8]、玉沢、清水、脇本、小田…。数々の思い出が溢れてきます。どうぞ皆様に呉呉もよろしくお伝え下さい。
 “散る桜残る桜も散る桜”
何か書けそうで何も書けません。兎に角立派に散る覚悟です。呉呉れも御身大切になさいますよう祈ります。姉上様にもよろしくお伝えください。

                           登喜夫  母上様

久保の父は久保が15歳の時に亡くなっており、残された母・タマは久保の戦死から35年経った1980年2月17日に地元・小樽天狗山シャンツェで開催された国民体育大会冬季大会スキー競技会ノルディックスキー・スペシャルジャンプを観戦した[6]。この時のタマは着物で正装しており、目の前で次々とジャンプ台から飛び出してくる選手たちを懐かしそうに見つめていたという。尚、タマはこの観戦から7年後の1987年に91歳の天寿を全うした[6]。2015年現在は、いとこが小樽市内に在住である。

2015年3月22日にはHBCで久保の生涯(と戦前の札幌オリンピック計画)を追った『HBC戦後70年スペシャル「幻の札幌五輪~戦火に散ったジャンパー~」』という特別番組が放送された(16:00~16:54)。また4月11日にはBS-TBSの「未来へつなぐ 土曜スタジアム」(毎週土曜23:00~24:00)にて同番組が放送された。

参考文献

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  • 『特攻隊と北海道』- 後藤守彦編著。溶明社

脚注

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  1. ^ a b c 夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』(原書房、2016年)p.222
  2. ^ a b 「久保登喜夫 戦死 二十五才」という資料が残っている(HBCの特番より)。
  3. ^ a b c d e 沖縄の海に散った、幻の五輪候補北海道新聞1998年2月3日夕刊
  4. ^ 連載7 記録に見る日本のスキー競技史 1923年、日本のスキー競技ははじまった 全日本スキー連盟HP
  5. ^ 1938年7月15日宇垣一成外務大臣からの通達により閣議で決定された。ちなみに同年9月に開催予定だった夏季オリンピック東京オリンピックも、同時に返上している。
  6. ^ a b c d e 戦後70年へ、北海道と戦争<第1章・開戦前夜>幻の札幌五輪<4>特攻直前 母思う手紙北海道新聞、2014年9月18日記事
  7. ^ 防衛省防衛研究所に残る戦闘概要には、同日の攻撃に関し「一八三〇(午後6時30分)頃 大半艦船ニ突入成功セルモノト認メラル」との記述がある。但し、特攻の性質上、途中で撃墜された可能性もあり、最期の詳細は不明である。また第3草薙隊では隊員80人のうち63人が戦死(戦死率78.75%)した。
  8. ^ 旧制小樽中学時代の同級生であり、その後立教大学野球部に所属した川崎信一選手のこと。久保と同じく学徒出陣し神風特攻隊にも所属していたが、出撃命令が下りずに運良く復員した。戦後すぐに再開された1946年の春季リーグ戦では主将を務め、打率.391の好成績で首位打者に輝いた〈首位打者・最優秀防御率(立教大学野球部公式サイト)東京六大学野球リーグ戦首位打者(東京六大学野球連盟公式サイト)〉。晩年は千葉県柏市に住み、2007年に85歳で死去。

関連項目

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外部リンク

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