コンテンツにスキップ

久世広誉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
久世広誉
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 寛延4年2月29日1751年3月26日
死没 文政4年3月8日1821年4月10日
改名 勝之助(幼名)、広敦(初名)、広誉
戒名 隆光院殿昌徳日統
墓所 東京都豊島区巣鴨本妙寺
官位 従五位下隠岐守大和守従四位下
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
下総関宿藩
氏族 久世氏
父母 久世広明岡部長著の娘
兄弟 広誉広備長谷川勝孚土井利豊広才鈴木重逵松平広徳広侶
久世広楽正室、満喜子、久世広孝正室ら
正室松平武元の7女・
側室:道樹院
綏之土井利器秋田長季正室、安藤信馨正室、伊保子ら
養子広運
テンプレートを表示

久世 広誉(くぜ ひろやす)は、江戸時代中期から後期にかけての下総国関宿藩主。関宿藩久世家5代。

来歴

[編集]

寛延4年(1751年)、先代藩主久世広明の長男として生まれる。明和2年(1765年)6月1日、10代将軍徳川家治に拝謁する。同年12月18日に従五位下隠岐守。明和6年10月1日、雁間詰めを命じられる。天明5年(1785年)3月10日、父広明の死去により遺領を継いだ。同年8月15日、初めてお国入りする許可を得る。天明7年(1787年)10月28日、相模国などの領地を常陸国内などに移される。

寛政7年(1795年)、広敦から広誉に改め、3月13日に名乗りを大和守とする。文化7年(1810年)末に従四位下に陞叙。文化14年(1817年)11月7日、病気を理由に家督を嫡孫で養子の広運に譲って隠居する。文政4年(1821年)3月に死去した。享年71。

系譜

[編集]

父母

正室

側室

  • 道樹院

子女

養子

脚注

[編集]
  1. ^ 土井利義の養子