主知主義
主知主義(しゅちしゅぎ、英: intellectualism)または知性主義とは、人間の精神(魂)を「理知(知力・理由)」、「意志(意欲・気力)」、「感情(感動・欲望)」に三分割する見方[1]の中で、理知の働きを(意志や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。
概要
[編集]「合理主義・理性主義」(英: rationalism)と類似した概念だが、理性そのものよりも、獲得が目指される「知識」「知性」の方に、より重きをおいた表現となっている。意志の働きを重視する主意主義(英: voluntarism)や、感情の働きを重視する主情主義(英: emotionalism)と対置される。
ただし、これはあくまでも相対的な立ち位置を表現するものであって、そこに絶対的な基準は無く、「何(どのような思想的立ち位置の人・集団)と対比されるか」に、その位置付けが依存していることに注意が必要。
歴史
[編集]古代
[編集]古代において主知主義の嚆矢として挙げられるのは、古代ギリシアの哲学者・ソフィスト達だが、中でもとりわけ、ソクラテスが(ソフィスト達との対比においては)「徳」などに対する執拗な問答・理知的探求が際立っているので、特筆される。プラトンの対話篇『プロタゴラス』等に見られる、「徳は知識である」「悪は無知によって生じる」といった主張も、ソクラテスが主知主義の嚆矢として言及される理由となっている。
他には、アリストテレス(逍遙学派)や、ストア派などが、他の学派との対比の中で、主知主義的な立場として言及される。
中世
[編集]中世のキリスト教神学においては、トマス・アクィナスが、(主意主義として言及されるアウグスティヌスやドゥンス・スコトゥス等との対比において)主知主義として言及される。
近代
[編集]近代の哲学においては、大陸合理論の内、スピノザやライプニッツなどが、(主意主義として言及されるデカルト、あるいはカント、シェリング、ショーペンハウアー等との対比において)主知主義として言及される[2]。