中野館 (陸奥国)
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![]() (岩手県) | |
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別名 | 飛鳥川館 |
城郭構造 | 城館 |
天守構造 | なし |
築城主 | 南部氏? |
築城年 | 1586年(天正14年)頃? |
主な城主 | 中野康実 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 埋没、溝? |
指定文化財 | 史跡等未指定[1][2] |
位置 | 北緯39度41分39.1秒 東経141度09分43.4秒 / 北緯39.694194度 東経141.162056度座標: 北緯39度41分39.1秒 東経141度09分43.4秒 / 北緯39.694194度 東経141.162056度 |
地図 |
中野館(なかのたて)は、岩手県盛岡市茶畑にあった日本の城。別称飛鳥川館。
概要
[編集]館主は九戸政実の弟、中野吉兵衛康実。北上川と簗川の合流地点北側の平地に位置する[3]。館跡全体の規模や構造は不明だが、2017年(平成29年)7月に行われた、隣接する盛岡藩の陶磁器(山陰焼)の窯跡である「山陰焼窯跡」の発掘調査の際、中野館に属するとみられる大溝が検出されている[4]。
歴史
[編集]三戸南部氏と抗争してきた高水寺城主・斯波詮真が、南部晴政の圧力に屈して、元亀2年(1571年)に九戸政実の弟・弥五郎を女婿として受け入れ、入嗣後に知行地として高田村を与えられ、高田吉兵衛康実と名を改めたが、当主が詮真からその子・詮直(詮元)に替わると確執して、天正14年(1586年)に康実は南部信直の下へ出奔、信直より中野館を与えられて中野吉兵衛康実と名乗り、これ以降、康実は南部氏側の斯波氏攻略の急先鋒となり、天正16年(1588年)に南部氏は斯波氏を滅亡させた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。
- 盛岡市遺跡の学び館 2019『盛岡市遺跡の学び館-平成29年度館報-』盛岡市 p.23