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中臣寿詞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中臣寿詞(なかとみのよごと、中臣の寿詞)は、古代日本での天皇の即位式および大嘗祭において、中臣氏によって奏上された寿ぎ詞(ほぎごと)[1]。「天神寿詞(あまつかみのよごと/あまのかみのよごと)」とも。

概要

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寿詞(よごと、賀詞)とは「天皇を寿ぐ言葉」を指す[2]。中臣寿詞の場合、元々は「天神寿詞」と称される詞であったが、神事・祭祀を掌る中臣氏(のち大中臣氏)が奏上することから「中臣寿詞」と称されるようになった[3]。文体は祝詞と同様に宣命体[2]。類例に出雲国造が奏上した寿詞である出雲国造神賀詞が知られる[2]

中臣寿詞の奏上制度の成立は詳らかでない。古くは『日本書紀』において、持統天皇4年(690年[原 1]の天皇即位に際して物部麻呂(石上麻呂)は大盾を立て、中臣大嶋は「天神寿詞」を読み、忌部色夫知神璽の剣鏡を奉ったことが記されている[3][1]。翌年の持統天皇5年(691年[原 2]にも、大嘗祭において中臣大嶋が「天神寿詞」を読んでいる[3]

飛鳥時代奈良時代に定められた「大宝令」や「養老令」の神祇令[原 3]では、践祚の際に中臣氏が「天神之寿詞」を奏上する旨と、忌部氏が「神璽之鏡剣」を奉る旨とが定められている[3][1]平安時代に入っても、『貞観儀式[原 4]や『延喜式[原 5]において同様の旨が定められていた[3]

内容

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内容が分かる主な寿詞としては次の2種がある。

前者は近年に発見された寿詞であり、かつては後者の方が本居宣長が『玉勝間』で初めて紹介して以来よく知られていた[4]。いずれも12世紀に奏上されたものであるが、内容は上古とほとんど変わらないと推測される[5][6]

その内容は、天孫降臨での中臣氏祖神(天児屋根命天忍雲根神)の働きについて述べたのち、大嘗祭での悠紀・主基の卜定と天皇の御代の寿ぎを述べ、最後に寿詞を拝聴する者への下知の形をとる[5]。特に天皇を「大倭根子天皇」と称する点や、『古事記』・『日本書紀』には見えない天忍雲根神[7]に関する中臣氏独自の伝承が記される点が注目されている[6]

脚注

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原典

  1. ^ 『日本書紀』持統天皇4年(690年)正月戊寅朔(1日)条。
  2. ^ 『日本書紀』持統天皇5年(691年)11月戊辰(1日)条(神道・神社史料集成参照)。
  3. ^ 『令集解』巻7(神祇令)践祚条(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ 『貞観儀式』巻4(践祚大嘗祭儀下)。
  5. ^ 『延喜式』巻7(践祚大嘗祭)。 - 『延喜式 校訂 上巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)141コマ参照。
  6. ^ 『台記別記』巻1 康治元年(1142年)11月条。

出典

  1. ^ a b c d 中臣寿詞(古代史) & 2006年.
  2. ^ a b c 「賀詞/寿詞」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  3. ^ a b c d e f g 中臣寿詞(国史).
  4. ^ a b c 中臣寿詞(祝詞事典) & 2003年.
  5. ^ a b 「中臣寿詞」『世界大百科事典 第2版』 平凡社(リンクは朝日新聞社「コトバンク」)。
  6. ^ a b 上田正昭 & 2015年, pp. 101–114.
  7. ^ 藤原氏の系図では天児屋根命の子として記される。

参考文献・サイト

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書籍

  • 百科事典
    • 「中臣寿詞」『神道大辞典 第3巻』平凡社、1941年。 
    • 青木紀元「中臣寿詞」『国史大辞典吉川弘文館 
    • 上田正昭「中臣寿詞」『日本古代史大辞典』大和書房、2006年。ISBN 978-4479840657 
  • その他書籍

サイト

  • 践祚大嘗祭”. 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」. 2016年2月9日閲覧。

関連項目

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