中田政子
中田 政子(なかた まさこ、1945年 - 2021年6月26日)は、神戸空襲の遺族や体験者らでつくる市民団体「神戸空襲を記録する会」の前代表。空襲犠牲者の名簿編纂作業を続けている。神戸市長田区在住。
略歴
[編集]母親・三木谷君子のおなかの中にいた1945年3月17日、空襲で当時1歳の姉の弘子を亡くした。中田はその半年後に生まれる。
1971年、「神戸空襲を記録する会」が発足する。母親は初期の活動を陰で支えた。
1978年、同会は神戸空襲の犠牲者の名簿を作成し始める。神戸空襲で亡くなった人の名前を国や自治体は把握しておらず、公的な犠牲者名簿は存在しない。このことから、同会メンバーは寺を訪ねて過去帳を調べ、慰霊祭で遺族らに協力を呼び掛けることによって神戸空襲で亡くなった人の名前を調べた。
1987年、母親が67歳で亡くなる。
阪神・淡路大震災の2年後の1997年、「神戸空襲を記録する会」の代表が亡くなり、中田は同会の2代目の代表になる。小学校や中学校を空襲体験者と共に訪問し、つらかった人の思いを伝える[1]。
2010年6月には、神戸空襲の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑の設置を市に要請。市は設置と名簿編纂への協力を了承する。
2011年からは市の広報紙やホームページでも情報提供の呼びかけが始まった。
2012年、慰霊碑の建設費の募金を同会が呼び掛けると、目標を上回る990万円が全国から寄せられた。市街地を一望できる神戸市中央区楠町7の大倉山公園の土地が神戸市から提供される。慰霊碑には1978年以来集めてきた犠牲者1752人の名前が刻まれる。
2013年8月7日、大倉山公園で慰霊碑の設置工事が行われる。15日午前10時から慰霊碑の除幕式が行われた。除幕式では、中田があいさつをし、「戦争を繰り返してはならないという、たくさんの人の願いが集まってできた。碑に刻まれた名前の向こうに一人一人の生きた命があったことを想像してほしい」と呼び掛けた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 神戸空襲を記録する会 編 編『神戸大空襲』のじぎく文庫、1972年。
- 神戸空襲を記録する会 編 編『神戸空襲体験記』 総集編、のじぎく文庫、1975年。
- 神戸空襲を記録する会『炎の記録神戸大空襲 : 神戸空襲を記録する会10年の歩み』神戸空襲を記録する会、1981年8月。
- 神戸空襲を記録する会 編 編『神戸大空襲 : 戦後60年から明日へ』神戸新聞総合出版センター〈のじぎく文庫〉、2005年12月。ISBN 4343003396。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 中田政子「神戸空襲を忘れない」 - 全日本自治団体労働組合
- 「神戸空襲 記念碑15日除幕/大倉山公園」『朝日新聞』2013年8月14日。
- 「神戸空襲の悲劇後世に 慰霊碑完成、1752人の名刻む」『神戸新聞』2013年8月14日。
- 「神戸空襲の慰霊碑除幕 犠牲者名1752人刻む 大倉山公園」『神戸新聞』2013年8月15日。
- 「終戦68年、神戸空襲の犠牲者名刻む碑除幕式」『産経新聞』2013年8月15日。
- 「終戦68年、神戸空襲の犠牲者名刻む碑除幕式」『産経新聞』2013年8月15日。
- 「神戸空襲を忘れない 犠牲者悼む慰霊碑の除幕式」『日本経済新聞』2013年8月16日。
- 「神戸大空襲:犠牲者を悼む 大倉山公園慰霊碑に1752人刻む」『毎日新聞』2013年8月16日。
- 「神戸空襲の慰霊碑が完成」『MBSテレビ』2013年8月16日。
- 「私は忘れない 終戦67年 神戸空襲犠牲者7500人、生きた証しを」『読売新聞』2012年8月14日。
- 「いのちの証し 終戦68年 子に先立たれ父は泣いた 神戸空襲」『読売新聞』2013年8月14日。
- 「いのちの証し 終戦68年 祖父奪った空襲語り継ぐ 「平和な世界に」」『読売新聞』2013年8月15日。
- 「いのちの証し 終戦68年 母と妹弟刻銘、指でなぞる」『読売新聞』2013年8月16日。