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中村與資平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村與資平
生誕 1880年2月8日
静岡県長上郡天王新田村
死没 (1963-12-21) 1963年12月21日(83歳没)
静岡県浜松市
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学建築学科
職業 建築家
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中村 與資平(なかむら よしへい、1880年2月8日 - 1963年12月21日)は、明治から昭和にかけて活躍した建築家朝鮮・旧満州及び静岡県などにおいて多くの銀行や公共建築の設計を手がけたことで知られる。

経歴

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本節の出典[1][2]

中村与資平は、1880年に静岡県長上郡天王新田村(現在の浜松市中央区天王町)に中村貞一郎の長男として生まれた(中村は慶長年間からの庄屋(官号:与左衛門)で,与資平は第14代にあたる)。1889年に下堀学校(現・浜松市立与進小学校)を卒業し、1893年には浜松高等小学校(現・浜松市立元城小学校)を卒業した。1899年に静岡県浜松尋常中学校(現静岡県立浜松北高等学校)を卒業し、その後、1902年に第三高等学校を卒業した。

1905年に東京帝国大学建築学科を卒業し、辰野金吾葛西萬司が共同経営する辰野葛西建築事務所に入った。1907年には第一銀行韓国総支店(後の朝鮮銀行本店、現在の韓国銀行貨幣博物館)の臨時建築部工務長に任命された.

朝鮮銀行本店、現・韓国銀行貨幣博物館

翌年1908年には京城(現在のソウル市)に移り住んだ。1912年、朝鮮銀行本店が竣工し、中村は朝鮮銀行の建築顧問に就任した。また、京城黄金町中村建築事務所を開設した。1917年には大連市に出張所および工務部を開設し、京城事務所から岩崎徳松を送り込んだ。さらに、久留弘文、宗像主一、オーストリア出身のアントン・フェラー(Anton Feller)も事務所に加わった。

1921年、欧米視察旅行を行った(その際アントン・フェラーが同行した)[3]。翌1922年には東京市中村工務所を開設し、東京に転居した。この時、京城事務所は岩崎徳松に、大連出張所は宗像主一に任せた。1923年には児童科学教育会を設立した[4]。1934年には工事部を廃止し、設計部を中村與資平建築事務所と改称した。

1944年、建築事務所を閉鎖し、浜松市に疎開した。その後、1952年には静岡県教育委員に当選し、晩年まで活動した[5]。1963年、浜松市にて享年83で亡くなった。

主な作品

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本節の出典[6]

建造物名 所在地 備考
1920年(大正9年) ちようせんきんこうたいれん/朝鮮銀行大連支店(現・中国工商銀行中山広場支店) 中華人民共和国 大連市 全国重点文物保護単位 第5-478号(2001年)
1920年(大正9年) ちようせんきんこうしんよう/朝鮮銀行奉天支店(現・華夏銀行中山路支店) 中華人民共和国 瀋陽市 全国重点文物保護単位 第7-1669号(2013年)
1921年(大正10年) てんとうきよう/天道教中央大教堂 大韓民国 ソウル市 ソウル特別市有形文化財 第036号(1978年)
1922年(大正11年) よこはましようきん/横浜正金銀行長春支店(現・長春雑技宮) 中華人民共和国 長春市 長春市文物保護単位 第6-15号(1994年)
1926年(大正15年) りおうけおおいそ/李王家大磯御別邸(現・明治記念大磯邸園 日本の旗 神奈川県大磯町 伊藤博文の別邸「滄浪閣」跡地に建造
1927年(昭和2年) はままつしこうかいとう/浜松市公会堂 日本の旗 静岡県浜松市 現存せず(1962年児童会館へ改築、1986年解体)
1928年(昭和3年) えんしゆうきんこう/遠州銀行本店(現・静岡銀行浜松営業部) 日本の旗 静岡県浜松市 浜松市指定有形文化財(2005年)
1929年(昭和4年) はままつてんきてつとう/浜松電気鉄道旭町駅 日本の旗 静岡県浜松市 現存せず(1981年解体)
1930年(昭和5年) ひくちひよういん/樋口病院(現・小諸医院

日本の旗 長野県小諸市
1930年(昭和5年) はままつきんこうきようかい/浜松銀行協会(現・木下惠介記念館 日本の旗 静岡県浜松市 浜松市指定有形文化財(2009年)
1931年(昭和6年) さんしゆうこきんこう/三十五銀行本店(現・静岡銀行本店) 日本の旗 静岡県静岡市 登録有形文化財 第22-0010号(1998年)
1931年(昭和6年) とよはししこうかいとう/豊橋市公会堂 日本の旗 愛知県豊橋市 登録有形文化財 第23-0015号(1998年)
1934年(昭和9年) しすおかしやくしよ/静岡市役所本館 日本の旗 静岡県静岡市 登録有形文化財 第22-0001号(1996年)
1935年(昭和10年) しすおかしこうかいとう/静岡市公会堂 日本の旗 静岡県静岡市 現存せず(1979年解体)
1935年(昭和10年) さいせいかい/済生会大阪府病院(現・大阪府済生会中津病院 日本の旗 大阪府大阪市 レプリカ再建(2000年頃解体、2002年頃復元)
1937年(昭和12年) しすおかけんちよう/静岡県庁本館 日本の旗 静岡県静岡市 登録有形文化財 第22-0073号(2001年)
1937年(昭和12年) とうそうてつとう/藤相鉄道藤枝新駅 日本の旗 静岡県藤枝市 現存せず(1964年一部解体、1970年解体)
1937年(昭和12年) りおうけひしゆつかん/李王家美術館(現・徳寿宮美術館) 大韓民国 ソウル市

家族

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中村家は慶長年間から続いた遠州庄屋(興左衛門).興資平は14代目に当たる.妻の岸(1885年-1946年)は代々天竜川問屋を営んでいた田代家(嘉平治)[7]11代に当たる田代英作(先代ともに二俣町町長[8])の次女.ドイツ文学者竹山道雄は甥にあたる[9].子供は二男二女[10]

著作

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  • 「都市に於ける道路の設計」,東京市政調査会, 1933年
  • 「住居」,桜文書院, 1937年
  • 「美術的建築」,サー・ウイリアム・チエンバース 著, 中村与資平 訳. 東京書院, 1917年

ギャラリー

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参考文献

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  • 西澤泰彦『日本植民地建築論』名古屋大学出版会、2008年2月。ISBN 978-4-8158-0580-7 
  • 続・生き続ける建築-9 中村與資平” (PDF). INAX REPORT No.187 (2011年7月). INAX出版. 2021年11月22日閲覧。

脚注

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  1. ^ 西澤泰彦 (1993). “建築家中村與資平の経歴と建築活動について”. 日本建築学会計画系論文集 450: 151-160. 
  2. ^ 西澤泰彦『海を渡った日本人建築家 : 20世紀前半の中国東北地方における建築活動』彰国社、1996年。 
  3. ^ 読売新聞1922年6月26日朝刊5ページ,「日本へ初耳のカイゼルパノラマが来る 前獨帝が数億の金を投じて撮影させた世界相 鮮銀顧問の中村氏の土産」「今度この「カイゼル,パノラマを朝鮮銀行の顧問で新進建築家の中村興資平工学士が,独逸へ遊んできたお土産の一つとして,日本の代理権を獲得して遂先日帰朝して来た」
  4. ^ 読売新聞 1923年1月13日朝刊4ページ 「学校で得た知識で玩具を自作させる」「工学士近藤和作,同中村興資平,早稲田大学講師清水隆の三氏が発起して児童科学教育會を起こすため準備中である..科学知識普及の小冊子を毎月頒布すると云うこの會の目的とする「科学遊具と自作」なるものは..児童をして玩具を造らしめ学校で修得する科学知識を実際に応用せしめるためだと云う」.国会図書館には同会1932年発行の「科学遊具と自作」第4編(実物幻灯機)と第9編(電信機)及び「蓄音機の作り方」が所蔵されている
  5. ^ 読売新聞1952年9月19日夕刊1ページ,「市区教委選あす公示」静岡県立候補者として中村興資平の名前あり
  6. ^ 続・生き続ける建築-9 中村與資平” (PDF). INAX REPORT No.187 (2011年7月). INAX出版. 2021年11月22日閲覧。
  7. ^ 筏問屋 旧田代家住宅”. 浜松市観光協会. 2023年12月22日閲覧。
  8. ^ 浜松市 おすすめ観光「筏問屋 旧田代家住宅」天竜区・天竜川筏問屋・嘉平治浜松市正直観光協会
  9. ^ 竹山恭二『平左衛門家始末』朝日新聞社、2008年3月30日。 
  10. ^ 長男邦一(1910年生,早稲田大学理工学部卒)の岳父はドイツ語学者の武内大造,次男兼二(1916年生,早稲田大学理工学部建築学科卒)は建築家としての途を歩むも応召,インパール作戦に動員され1944年にビルマで戦死,長女雪枝(1908年生)の夫は眼科医師の鳥山晃,次女和子の岳父は外交官の山崎次郎

外部リンク

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