中村次喜蔵
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中村 次喜蔵 | |
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生誕 |
1889年4月18日 日本 東京府 |
死没 |
1945年8月18日(56歳没) 満洲国 間島省琿春県 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
中村 次喜蔵(なかむら じきぞう、1889年(明治22年)4月18日[1] - 1945年(昭和20年)8月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功三級[2]
経歴
[編集]1889年(明治22年)に東京府で生まれた[1]。陸軍士官学校第24期卒業[3]。1938年(昭和13年)3月1日に陸軍歩兵大佐に進級し[4]、陸軍予科士官学校学生隊長に就任した[4]。1939年(昭和14年)に歩兵第124連隊長に転じ[4]、日中戦争に出動[5]。南寧で包囲された第5師団の救援や[6]、翁英作戦[6]、賓陽作戦、良口作戦などを連戦した[3]。1940年(昭和15年)12月に新設された奉天陸軍予備士官学校長に就任し[4][6]、1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進級した[2]。
同年8月奉天陸軍予備士官学校が廃止されると[6]、久留米第1陸軍予備士官学校長に転じた[1]。1943年(昭和18年)に独立混成第19旅団長に就任し[1]、中国戦線に復帰、汕頭周辺の警備に当たり[3]、1944年(昭和19年)6月27日に陸軍中将に進級した[2]。7月14日に第112師団長に親補され[3]、朝鮮国境付近に布陣し、ソ満国境の守備に当たった[7]。8月9日のソ連侵攻を受け、防衛陣地を固守し、8月17日まで戦闘が続いた[7]。8月18日に第1方面軍の命により停戦に応じ[7]、同日琿春で自決した[7]。自決の状況、理由は不明である[7]。
栄典
[編集]- 勲章
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 伊藤禎 著『大東亜戦争責任を取って自決した陸軍将官26人列伝』展望社、2018年。ISBN 4885463513。