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中村光良

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中村 光良
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 熊本県熊本市
生年月日 (1944-07-31) 1944年7月31日(80歳)
身長
体重
178 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1964年
初出場 1967年
最終出場 1968年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

中村 光良(なかむら みつや、1944年7月31日 - )は、熊本県熊本市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ

登録名は中村光也(みつや)、1967年以降は中村光哉(みつや)に表記変更。

経歴

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熊本商業高校では2年次の1962年に春季九州大会決勝へ進み、高鍋高清俊彦らに投げ勝ち優勝を飾る。試合では制球難の先発を3回2死からリリーフし、カーブ、シュートを低目にコントロールして、はやる高鍋の打者を凡飛に打ち取るなど、連投の疲れも見せず、2日間に30イニングスを投げ抜いた。

卒業後の1964年広島カープへ入団し、3年目の1967年に一軍初登板。中継ぎとして起用されるが、1969年以降は登板が無く、1973年限りで現役を引退。

引退後は広島のスコアラーとして球団の黄金期を支え、監督の古葉竹識は「投手の細かい分析能力に優れ、指示も的確」[1]と評され、監督に就任した古葉の招聘で大洋二軍投手コーチ(1987年 - 1989年)を務め、野村弘樹を育てた[2]。古葉の退任と共に退団した後は西武二軍投手コーチ(1990年 - 1991年)→三軍投手コーチ(1992年)、西武退団後は台湾CPBL俊国ベアーズ投手コーチ(1993年)を務め、俊国コーチ時代は日本で鳴かず飛ばずであった野中徹博を再生。

現在は広島北リトルリーグ総監督として、基本を重視した指導をしている[3]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1967 広島 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 25 6.0 5 0 2 0 0 3 1 0 1 1 1.50 1.17
1968 3 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 33 8.0 9 3 2 0 0 6 0 0 5 5 5.62 1.38
通算:2年 9 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 58 14.0 14 3 4 0 0 9 1 0 6 6 3.86 1.29

背番号

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  • 33 (1964年 - 1969年)
  • 15 (1970年 - 1972年)
  • 77 (1973年)
  • 91 (1987年 - 1989年)
  • 80 (1990年 - 1992年)
  • 72 (1993年)

登録名

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  • 中村 光也 (1964年 - 1966年)
  • 中村 光哉 (1967年 - 1973年)
  • 中村 光良 (1987年 - 1993年)

脚注

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  1. ^ ベースボールマガジン 2022年 02 月号:古葉カープ赤ヘル伝承、カープから横浜大洋へ大移動「古葉ファミリー」8人衆とは何か?、84頁
  2. ^ カープから横浜大洋へ大移動「古葉ファミリー」8人衆とは何か?、85頁
  3. ^ 広島北リトルリーグ

関連項目

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外部リンク

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