中御門為方
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時代 | 鎌倉時代中期 - 後期 |
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生誕 | 建長7年(1255年) |
死没 | 嘉元4年12月11日(1307年1月15日) |
別名 | 号:中御門 |
官位 | 正二位、権中納言、太宰権帥 |
主君 | 亀山上皇→後深草上皇→伏見上皇→後宇多上皇 |
氏族 | 藤原北家勧修寺流吉田家庶流中御門家(経任系) |
父母 | 父:中御門経任、母:藤原公雅の娘[1] |
兄弟 | 為方、為俊、高倉経守、定任、覚経、経恵、経子[2] |
妻 | 源仲貞の娘 |
子 | 為行、経禅、房快、女子[3] |
中御門 為方(なかのみかど ためまさ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿。権大納言・中御門経任の子。官位は正二位権中納言、太宰権帥。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 正嘉2年(1258年)1月5日、叙爵[4]。
- 弘長元年(1261年)4月20日、和泉守に任ぜられる。
- 弘長2年(1262年)3月29日、従五位上に昇叙。
- 文永3年(1266年)4月27日、正五位下に昇叙。
- 文永6年(1269年)12月7日、右兵衛佐に任ぜられる。
- 文永10年(1273年)5月3日、勘解由次官に任ぜられる。
- 文永11年(1274年)9月10日、右衛門権佐に任ぜられ、検非違使宣旨を受ける。
- 建治元年(1275年)12月26日、蔵人に補される。
- 建治2年(1276年)12月20日、春宮大進を兼ねる。
- 弘安3年(1280年)2月16日、右少弁を兼ねる。
- 弘安4年(1281年)5月6日、正五位上に昇叙。
- 弘安6年(1283年)3月26日、左少弁に転任。同年12月24日、従四位下に昇叙。同月30日、権右中弁に転任。
- 弘安7年(1284年)1月13日、右中弁に転任。同年5月6日、従四位上に昇叙。
- 弘安8年(1285年)1月5日、正四位下に昇叙。同年8月19日、皇后宮亮を兼ねる。同月27日、正四位上に昇叙。
- 弘安9年(1286年)1月13日、右大弁に転任し蔵人頭に補される。同年9月2日、参議に任ぜられる。右大弁、皇后宮亮は元の如し。同年中に従三位に昇叙。
- 弘安10年(1287年)1月13日、近江権守を兼ねる。同年9月3日、造東大寺長官に補される。同年12月10日、左大弁に転任。
- 正応元年(1288年)8月25日、皇后宮権大夫に転任。同年10月27日、権中納言に任ぜられる。同年11月21日、正三位に昇叙。同年12月20日、右衛門督を兼ね、検非違使別当に補される。
- 正応3年(1290年)1月5日、従二位に昇叙[5])。同年6月7日、右衛門督と検非違使別当を辞す。同月8日、帯剣を許される。
- 正応5年(1292年)3月29日、正二位に昇叙。11月11日、母の喪に服す。
- 永仁元年(1293年)7月22日、復任する。
- 永仁2年(1294年)11月12日、南都衆の訴えにより放氏される。同年12月26日に放氏を解かれる。
- 永仁5年(1297年)1月19日、父の経任の喪に服す。同年5月16日に復任するも、6月7日に権中納言を辞す。
- 永仁6年(1298年)同年中に本座を許された。
- 正安2年(1300年)12月22日、太宰権帥に任ぜられる。
- 嘉元元年(1303年)1月28日、太宰権帥を止める。
- 嘉元4年(1306年)12月8日、出家[6]。同月11日、薨去。享年52。