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中川久盛

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中川久盛
中川久盛像(個人蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 文禄3年7月15日1594年8月30日
死没 承応2年3月18日1653年4月15日[1]
官位 従五位下内膳正
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
豊後岡藩
氏族 中川氏
父母 中川秀成虎姫
兄弟 久盛、佐久間勝成?、水野元綱正室ら
正室紀為君徳川家康の養女)
側室:安威氏
久清水野忠職正室
養女久留島通清正室
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中川 久盛(なかがわ ひさもり)は、江戸時代前期の大名豊後国岡藩の第2代藩主官位従五位下内膳正賤ヶ岳の戦いで敵味方となり戦った中川清秀佐久間盛政を両祖父に持つ。

略歴

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初代藩主・中川秀成の長男。母は佐久間盛政の次女(新庄直頼の養女)・虎姫[2]

慶長17年(1612年)、父が死去したため跡を継いだ。

元和9年 (1623年)、幕府の要請で松平忠直配流・謹慎に関わり、一時的に岡藩が忠直の配流場に選ばれた[3]

慶安4年(1651年)に長男久清に家督を譲るまで39年間、藩主として在職した。

御政事御定書」を制定し、藩の法制度を整えている。また正保年間に緒方井路の開削に乗り出し、子の久清の代に完成している。これは岡藩の農業用水路として重用された。

承応2年(1653年)、59歳で没した。

系譜

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脚注

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  1. ^ 中川久盛』 - コトバンク
  2. ^ 祖母である清秀の妻が虎姫を嫌い、虎姫は終始畿内暮らしであった。
  3. ^ 5月12日竹中重義が藩主である豊後国府内藩に配流となった。