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中島賢蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中島賢蔵
なかじま けんぞう
生年月日 1904年11月5日
出生地 日本の旗 日本 東京府
(現・東京都
没年月日 (1968-08-11) 1968年8月11日(63歳没)
出身校 東京帝国大学法学部政治学科卒業
前職 厚生大臣官房会計課長
現職 北海道副知事
所属政党自由党→)
自由民主党

当選回数 1回
在任期間 1954年5月20日 - 1958年4月19日

在任期間 1945年4月 - 1945年10月
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中島 賢蔵(なかじま けんぞう、1904年明治37年〉11月5日[1][2][3] - 1968年昭和43年〉8月11日[1])は、日本の内務官僚政治家。官選山梨県知事、初代天理市長

経歴

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東京府出身。中島浅次郎の長男として生まれる[4]第一高等学校を卒業。1927年(昭和2年)12月、高等試験行政科試験に合格。1928年(昭和3年)、東京帝国大学法学部政治学科を卒業[2]内務省に入省し埼玉県属となる[4][5]

以後、内務省大臣官房文書課勤務、秋田県事務官、内務省地方局事務官、内閣調査局調査官、企画院書記官奈良県書記官・経済部長、厚生省住宅課長、内務省地方局行政課長[6]、同大臣官房会計課長などを歴任[4]

1945年(昭和20年)4月、山梨県知事に就任[7]。戦災の対応に尽力し終戦を迎えた。同年10月、東京都計画局長に転任[4][5]1946年(昭和21年)に退官し、その後、公職追放となった[5]

追放解除後、1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙奈良県全県区自由党から出馬するも次点で落選。1954年(昭和29年)5月20日に天理市長に無投票で当選した[2]。同日、市長に就任した[2]1958年(昭和33年)4月19日に市長を退任した[2]。同年の第28回衆議院議員総選挙でも奈良県全県区より自由民主党で出馬するが落選した。同年、北海道副知事に就任した[8]。 

人物

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脚注

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  1. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』878頁。
  2. ^ a b c d e 日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第2巻 451コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b 奈良県年鑑 1953年 231コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ a b c d 『新編日本の歴代知事』509頁。
  5. ^ a b c 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』268頁。
  6. ^ 『官報』第4648号、昭和17年7月9日。
  7. ^ 山梨県. “歴代知事”. 山梨県. 2024年10月19日閲覧。
  8. ^ 日本官界名鑑 第12版 昭和35年版 785コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年。