コンテンツにスキップ

中山修一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山 修一(なかやま しゅういち、1915年大正4年)7月19日 - 1997年平成9年)4月30日)は、日本考古学者歴史地理学者。京都府出身。長岡京の調査・研究等において大きな業績を残したことで知られ[1]、「長岡京発見の父」とも呼ばれる[2]。長岡京跡発掘調査研究所所長。京都文教短期大学名誉教授[3]。著書に「長岡京発掘」(共著)「長岡京内と外」「よみがえる長岡京」などがある。

経歴

[編集]
月日 事項
大正4年 7月19日 新神足村大字勝竜寺小字久貝(現長岡京市久貝)にて誕生。
昭和10年 3月 京都府師範学校本科第二部を卒業する。
昭和10年 4月1日 向陽小学校訓導となると同時に短期現役兵として入隊する。
昭和10年 8月31日 陸軍歩兵伍長に任ぜられ、同日除隊、国民軍士官勤務適任証書を受領する。
昭和14年 4月 京都府師範学校専攻科に入学する。
昭和15年 4月 長法寺小学校訓導となる。
昭和17年 3月18日 『乙訓村海印寺村郷土史の研究』を著す。早良親王幽閉事件を書き、不敬罪として警察の取り調べを受ける。
昭和19年 4月 中等教員試験検定日本史東洋史に合格。京都府立伏見中学校兼桃山中学校教諭となる。
昭和21年 5月 京都大学文学部史学科に入学し、地理学を専攻。在学中に平安女学院講師。
昭和24年 4月 京都大学文学部大学院に進学。
昭和24年 9月 京都女子中学・高校教諭となる。
昭和26年 4月 京都市立西京高校教諭となる。
昭和29年 12月30日 長岡京の発掘調査にはじめて着手し、翌年早々朝堂院中門にあたる会昌門跡を発見。
昭和30年 3月27日 長岡宮会昌門発見の報道が行なわれ、大きな反響をよぶ。
昭和31年   長岡京大内裏付近遺物分布図を作成する
昭和33年 12月15日 京都市教育委員会指導主事として出向する。
昭和34年   長岡宮大極殿跡・小安殿を発掘する。
昭和40年 4月 長岡京の発掘調査に従事するため、京都市立西京商業高校定時制教諭となる。
昭和40年 11月5日 京都府教育委員会から文化財功労者表彰を受ける。
昭和41年 2月13日 小林清等と「乙訓の文化遺産を守る会」を結成し、副会長に就任する。
昭和45年 11月5日 文化庁長官から長年文化財に力を注いだ功績により、表彰を受ける。
昭和47年 10月1日 京都家政短期大学助教授となる。
昭和47年 11月11日 京都市教育委員会から京都市教育功労者表彰を受ける。
昭和50年 4月1日 京都家政短期大学教授となる。
昭和50年 10月13日 長岡京市文化財保護審議会会長となる。
昭和51年 3月 長岡宮跡発掘調査団(のちに長岡京跡発掘調査研究所と改称)を再結成し、団長となる。
昭和56年 11月7日 多年にわたる長岡京跡の究明に功績があったとして、京都府教育功労者表彰を受ける。
昭和57年 4月12日 吉川英治文化賞を受ける。
昭和58年 11月30日 京都新聞文化賞を受ける。
昭和59年 11月11日 長岡京遷都1200年を迎え、長岡京遷都1200年記念実行委員会から、長岡京の発掘・調査研究・遺跡保存などに大きな功績を残したとして、記念表彰を受ける。
昭和62年 4月1日 京都文教短期大学名誉教授となる。
昭和62年 11月3日 勲五等雙光旭日章を授与される。
平成3年 3月22日 長岡京市第1回文化功労賞を受ける。
平成8年 2月8日 京都府文化賞特別功労賞を受ける。
平成9年 4月30日 自宅にて心不全のため死去。戒名は「無学院精空修徳居士」

中山修一記念館

[編集]

2002年、中山による功績を顕彰する施設として、京都府長岡京市久貝にある中山の生家の一部が「中山修一記念館」がオープンした[1]。ここでは、中山の発掘調査研究の成果などを知ることができる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 中山修一記念館 | 長岡京市公式ホームページ”. www.city.nagaokakyo.lg.jp. 2021年12月5日閲覧。
  2. ^ 「長岡京発見の父」知っていますか? 中山修一記念館、来場者減で功績PR|社会|地域のニュース|京都新聞”. 京都新聞. 2021年12月5日閲覧。
  3. ^ 20世紀日本人名事典. “中山 修一とは”. コトバンク. 2021年12月5日閲覧。

外部リンク

[編集]