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中原章任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
中原章任
時代 鎌倉時代末期
生誕 不明
死没 元亨元年(1321年
官位 検非違使道志、検非違使尉、大夫判官従四位下刑部省大判事、明法博士、明法侍読修理権大夫
主君 西園寺実兼花園院
氏族 明法道中原氏章直流
父母 中原章継
兄弟 章任是円真恵
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中原 章任(なかはら の のりとう)は、鎌倉時代末期の貴族明法家法学者)。『金玉掌中抄』の著者。花園院の明法侍読。父は章継、弟は是円真恵従四位下大判事明法博士修理権大夫

略歴

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中原氏10世紀の氏祖中原有象以来明経道(儒学)・明法道(法学)を家学とした家系であり、章任はそのうち明法道を家学とする系統の生まれで、章直流に属す[1]。祖父の章職は、刑部省大判事明法博士[2]。父の中原章継も、『地下家伝』九によれば、明法博士だったと伝えられる[3]。弟の是円(中原章賢)と真恵も『建武式目』を起草者した法学者として著名[4]

若年から検非違使道志に任官し、検非違使尉、大夫判官と出世を重ねる[2]

正和3年(1314年)頃、前太政大臣・前関東申次である西園寺実兼家司を務めた(『公衡公記』)[2]。この記録は、明法家が特定の公卿に侍すこともあった実例として興味深いものである[2]

律令の参考書である『金玉掌中抄』を著述[2]。約70の法律事項に律令格式本文と家学によって註解したもので、鎌倉時代公家法の思想を伺うことができ、また律の逸文を含むことから貴重[2]

元応元年(1319年)、後醍醐天皇によって記録所に召されて明法論議に参加している[5]

元応2年(1320年)、花園院に律令を講じた(『花園天皇宸記』)[2]

元亨元年(1321年)に卒去[2]極位極官は、従四位下大判事・明法博士・明法侍読修理権大夫[2]

脚注

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  1. ^ 吉岡 1997.
  2. ^ a b c d e f g h i 利光 1997.
  3. ^ 三上 & 正宗 1937, p. 410.
  4. ^ 真恵」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E6%81%B5コトバンクより2020年7月9日閲覧 
  5. ^ 瀬賀正博『日本古代律令学の研究』(汲古書院、2021年) ISBN 978-4-7629-4233-4 P328.

参考文献

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