コンテンツにスキップ

中原武之輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
なかはら たけのすけ

中原 武之輔
生誕 1898年1月30日
日本の旗 日本岡山県浅口郡玉島町
(現・倉敷市玉島
死没 不明
国籍 日本の旗 日本
出身校 米沢高等工業学校
(現・山形大学工学部
職業 事業家
肩書き東京軽合金製作所取締役
配偶者 和子(中塚長十郎の四女)
子供 百合子(長女)
富佐子(次女)
  • 中原克一郎(父)
家族 中原重樹(兄・長男)
テンプレートを表示

中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年明治31年)1月30日[1] - 不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹岡山県倉敷市出身。

経歴

[編集]

生い立ち

[編集]

1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる[1]旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する[2]。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車日野自動車DMG森精機)へ就職する[3]

就職後

[編集]

入社後、中原は東京大森工場へ配属される。6年間、同工場で勤務した後、1926年(大正15年)東京軽合金製作所へ転職する。1937年(昭和12年)中原が39歳のときに同社の取締役となる[1]。そして戦後は、東京軽合金製作所の船引工場(所在地:福島県田村郡船引町)の工場長を務めた[4]。また、1950年(昭和25年)には農機工業株式会社を解散させている[5]。その後も、複数の会社を起業するなど精力的に活動していた。1960年代まで会社役員等を務めていた[6]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 大衆人事録 東京篇 p.545, 帝国秘密探偵社 [編], 昭和14年
  2. ^ 米沢高等工業学校一覧 自大正6年至7年 p.173, 米沢高等工業学校 編, 大正2-15年
  3. ^ 米沢高等工業学校一覧 自大正9年至10年 p.120, 米沢高等工業学校 編, 大正2-15年
  4. ^ 全国工場通覧 昭和24年版 p.30, 商工省 編, 工業新聞社, 昭和22-24年
  5. ^ 官報 1950年02月18日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 昭和25年
  6. ^ 山形大学工学部六十五年史, 財界評論新社, 1974年