中原武之輔
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なかはら たけのすけ 中原 武之輔 | |
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生誕 |
1898年1月30日 日本・岡山県浅口郡玉島町 (現・倉敷市玉島) |
死没 | 不明 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
米沢高等工業学校 (現・山形大学工学部) |
職業 | 事業家 |
肩書き | 元東京軽合金製作所取締役 |
配偶者 | 和子(中塚長十郎の四女) |
子供 |
百合子(長女) 富佐子(次女) |
親 |
|
家族 | 中原重樹(兄・長男) |
中原 武之輔(なかはら たけのすけ、1898年(明治31年)1月30日[1] - 不明 )は、日本の実業家。元東京軽合金製作所取締役。兄は茨城大学教授を務めた中原重樹。岡山県倉敷市出身。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1898年(明治31年)、岡山県浅口郡玉島町(現:倉敷市玉島)の士族の家系である中原克一郎の三男として生れる[1]。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学。1917年(大正6年)に同校を卒業し、山形県にある米沢高等工業学校(現:山形大学工学部)へ進学する[2]。1920年(大正9年)同校機械科を卒業し、当時大企業であった東京瓦斯電気工業(現:いすゞ自動車・日野自動車・DMG森精機)へ就職する[3]。
就職後
[編集]入社後、中原は東京大森工場へ配属される。6年間、同工場で勤務した後、1926年(大正15年)東京軽合金製作所へ転職する。1937年(昭和12年)中原が39歳のときに同社の取締役となる[1]。そして戦後は、東京軽合金製作所の船引工場(所在地:福島県田村郡船引町)の工場長を務めた[4]。また、1950年(昭和25年)には農機工業株式会社を解散させている[5]。その後も、複数の会社を起業するなど精力的に活動していた。1960年代まで会社役員等を務めていた[6]。
脚注
[編集]- ^ a b c 大衆人事録 東京篇 p.545, 帝国秘密探偵社 [編], 昭和14年
- ^ 米沢高等工業学校一覧 自大正6年至7年 p.173, 米沢高等工業学校 編, 大正2-15年
- ^ 米沢高等工業学校一覧 自大正9年至10年 p.120, 米沢高等工業学校 編, 大正2-15年
- ^ 全国工場通覧 昭和24年版 p.30, 商工省 編, 工業新聞社, 昭和22-24年
- ^ 官報 1950年02月18日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 昭和25年
- ^ 山形大学工学部六十五年史, 財界評論新社, 1974年