世傑班
世傑班(せいけつはん、1319年 - ?)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の側近の一人であったことで知られる。
『元史』に列伝はないが楊瑀の『山居新話』でその事蹟について多く言及されており、『山居新話』に基づいて『新元史』巻136列伝33で立伝されている。
概要
[編集]世傑班の祖先は天山ウイグル王国に仕えていたカラ・イカチ・ブイルクで、「北庭文定王」の称号を持ちウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の側近であったサルバンの息子にあたる。後述するように「1333年時点で15歳であった」との記録から、延祐6年(1319年)の生まれと推定される[1]。サルバンはウカアト・カアンと非常に親密な関係にあった近臣であり、世傑班もウカアト・カアンの治世の初めには尚輦奉御の地位にあった[2]。
元統元年(1333年)、ウカアト・カアンが「洪禧」と刻まれた小璽を作成した時には、金函青嚢に入れた上で世傑班がこれを掌るよう命じられた[1]。世傑班はこれを首にかけた上で袖の中にしまい込み、その位置は母親でさえ知らなかったという。また世傑班は親友に内廷の事を聞かれても全く別の事を答えるなど15歳の若さにして慎重な人柄で、楊瑀は漢代の孔光に擬えている。なお「洪禧」の小璽について、『山居新話』にはもともと文宗の治世に奎章閣が開かれた時、「天暦之宝」と「奎章閣宝」と虞集が篆刻した印が作られていたが、ウカアト・カアンの治世になって改めて「明仁殿宝」と「洪禧」と楊瑀が篆刻した小璽が作られた、との記録がある[3]。
後至元6年(1340年)、欠員の出た中書右丞の後任を巡る議論が行われたが、近侍の世傑班が推薦したことにより、枢密同知のタシュ・テムルが任命されることとなった[4]。タシュ・テムルは更に中書左丞にまで出世したが、亡くなるまで遂に世傑班の推薦のことについて知ることはなく、世傑班の方でもことさらに話題とすることはなかったため、『山居新話』の著者楊瑀は「(世傑班は)まさに厚徳の人と言うべきである」と評している[4][5]。なお、尚衍斌は世傑班がタシュ・テムルを推薦した理由として、タシュ・テムルの母がウイグル人であったこと、世傑班の父のサルバンとタシュ・テムルが同僚であったことなどが背景にあったのではないかと推測している[6]。
ブイルク家
[編集]- カラ・イカチ・ブイルク(Qara yiqači buyiruq >哈剌亦哈赤北魯/hālà yìhāchì bĕilŭ)
- ユトゥス・イナル(Yutus Inal >月朶失野訥/yuèduǒshī yěnè)
脚注
[編集]- ^ a b 尚 2012, p. 14.
- ^ 『山居新話』巻4,「予因追憶高昌世傑班【字彦時】、北庭文定王沙剌班大司徒之子、為尚輦奉御。元統元年、上新製『洪禧』小璽、貯以金函青嚢、命世傑班掌之。懸於項、寘於袖中経年、其母不知。親友或叩之内廷之事、則答以他説、其慎密如此。時年十五歳、方之孔光、尤可尚矣」
- ^ 『山居新話』巻3,「後至元間、伯顔太師擅権、尽出太府監所蔵歴代旧璽、磨去篆文、以為鷹墜、及改作押字図書、分賜其党之大臣。……文皇開奎章閣、作二璽、一曰天暦之宝、一曰奎章閣宝、命虞集伯生篆文。今上皇帝作二小璽、一曰明仁殿宝、一曰洪禧、命瑀篆文。洪禧小璽、即瑀所上進者。其璞純白、上有一墨色亀紐、観者以為二物相聯、実一段玉也。上頗喜之」
- ^ a b 尚 2012, p. 11.
- ^ 『山居新話』巻2,「枢密院同知帖木達世。後至元六年、中書右丞缺、衆議欲以某人為之。近侍世傑班、力以帖木達世為薦、至甚懇切。上乃允其請。後累遷官至左丞相、卒不知世傑班之挙。班亦未嘗歯及之、可謂厚徳人也」
- ^ 尚 2012, pp. 17–18.