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上田聴秋

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上田 聴秋(うえだ ちょうしゅう、嘉永5年2月24日1852年3月14日) - 昭和7年(1932年1月17日)は、明治期俳人。聴秋は号で、本名は「上田肇」、俳号は不識庵、別名「花本聴秋」、花本流派の11世宗匠で明治から大正期に京都の俳壇で重きをなした。書家としても優れた作品を残している。

経歴

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美濃国大垣藩士として生まれる。幕末京都俳壇の重鎮八木芹舎(花本芹舎)の門に学び、江戸に出て慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳第一巻239頁』)。のちに鉄道官僚の重鎮となる松本荘一郎の面倒を見た。明治17年(1884年)、京都に帰郷し、「梅黄社」を設立。『鴨東集』(のち『俳諧鴨東集』『俳諧鴨東新誌』)を創刊。

明治32年(1899年)6月に雑誌「太陽」が催した「俳諧十二傑」の投票で、老鼠堂永機正岡子規三森幹雄尾崎紅葉角田竹冷巖谷小波雪中庵雀志幸堂得知内藤鳴雪桂花園桂花と共に12傑入り。

門人に茶谷霞畝竹内菊園句碑など。

句集

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  • 『鶴鳴集』
  • 『聴秋百吟』

親族

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実兄の小原適男爵貴族院議員を務めた。孫は上田都史

外部リンク

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参考文献

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  • 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年