三淵震三郎
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みぶち しんざぶろう 三淵震三郎 | |
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生誕 |
1911年 福島県 |
洗礼 | キリスト教カトリック |
国籍 | 日本 |
出身校 | 早稲田大学 |
職業 | 保険事業家 |
配偶者 | たい(反町茂作の子) |
親 | 三淵忠彦(のち初代最高裁判所長官) |
親戚 | 三淵嘉子、石渡慎五郎、石渡敏一、白仁武、反町茂作、浜口檐、近藤廉平(兄弟の婚族)、堀維孝(親の婚族) |
家族 | 三淵乾太郎、三淵多摩、萱野章次郎、他 |
補足 | |
三淵震三郎(みぶち しんざぶろう、1911年4月11日 - 1969年3月20日)は、日本の保険事業家。三淵忠彦の三男。
略歴
[編集]1911年(明治44年)4月11日、元判事で元慶應大学講師、住友信託社員の父三淵忠彦と、母登喜の三男として、福島県に生まれる。
1935年(昭和10年)、早稲田大学法学部(ドイツ法)卒業[1]。兄の三淵乾太郎は判事となっていた。
1941年(昭和16年)、大東京火災海上保険(現あいおいニッセイ同和損害保険)に入社し、1943年には徴収課主任[2]。のち、常務を務めた。
妹の多摩は法学博士で大審院検事石渡敏一子息の石渡慎五郎(東京火災保険社員)と結婚した。
自動車保険料率算定会(自算会)の常務を務めた。
1969年3月20日、心不全により神奈川県の自宅で死去。葬儀は雪の下教会で行われた[3]。
家族
[編集]- 系図
- 萱野長裕 ‐ 曽祖父・会津藩家老。
- 井上ツナ - 長裕妻。
- 萱野長修 - 会津藩家老。戊辰戦争首謀者のうちの生存者として、1869年長崎裁判所から家名断絶と切腹を命じられる[注釈 1]。一刀流溝口派の相伝者。
- - 長修妻[注釈 2]。
- 萱野長正 ‐ 改姓し、郡長正。
- 萱野寛四郎 ‐ 改姓し郡寛四郎。1872年(14歳)から書生として元幕臣軍艦役並の石渡栄次郎(石渡敏一父)宅に寄宿し、日本郵船外国航路船長となる[注釈 3]。
- 石渡登美 - 寛四郎妻。石渡敏一の妹。
- 郡虎彦 ‐ 養子。石渡登美姉の錫と鈴木耕水の六男。
- 三淵隆衡 - 祖父・会津藩士。旧名・安之助。家名が断絶させられたため三淵を名乗る[4]。明治維新後は官吏となり、牛込区長などを務めた[5]。
- 佐野登喜(-1902) - 祖母。佐野貞次郎長女[6]。
- 萱野長修 ‐ 大伯父。会津藩家老。戊辰戦争敗退の責任をとって切腹。
関連項目
[編集]- 保険銀行時報 - ウィキソース
脚注
[編集]- 注釈
- 出典
- ^ 人事興信所 「全日本紳士録 昭和34年版」。1959年
- ^ ダイヤモンド社 1942.
- ^ 「Insurance」。1969年。
- ^ 司法の新制度確立に尽力した会津人三淵忠彦あいづ人物伝、会津若松市
- ^ 牧野登『紙碑・東京の中の会津』(歴史調査研究所、1980年)p.137
- ^ a b c 教材「ろくをさばく」考(1)筆者・三淵忠彦を中心に佐野比呂己、北海道教育大学紀要 (教育科学編) 第五十九巻 第一号 平成二十年八月
- ^ 『人事興信録 6版』(人事興信所、1921年)ほ6頁
- ^ 『私の会った明治の名法曹物語』小林俊三 日本評論社 1974、p272
- ^ 白鳥尭助サンパウロ人文科学研究所
- ^ 大衆人事録 昭和3年版「三淵忠彦」
参考文献
[編集]- ダイヤモンド社『ポケツト会社職員録 昭和18年版』ダイヤモンド社、1942年、221頁 。