三浦矩次
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延享4年4月25日(1747年6月2日) |
死没 | 安永9年3月21日(1780年4月25日) |
改名 | 鋼之助(幼名)、矩次 |
戒名 | 竜徳院殿深誉智海海底大居士 |
墓所 | 東京都府中市紅葉丘の誓願寺 |
官位 | 従五位下備後守、志摩守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 |
三浦義理、富永氏 三浦明次 |
兄弟 | 矩次、酒井忠儔正室 |
妻 | 松平乗祐娘 |
子 | 毗次、前次 |
三浦 矩次(みうら のりつぐ)は、江戸時代中期の大名。美作国勝山藩2代藩主。官位は従五位下・備後守、志摩守。美作勝山藩三浦家7代。
生涯
[編集]三河国西尾藩主・三浦義理(勝山藩三浦家5代)の長男として誕生。母は富永氏。
宝暦12年(1762年)9月1日、義理の養子として三浦家を継いでいた三浦明次(義理の甥、勝山藩初代藩主)の養嗣子となる。安永元年(1772年)に明次が隠居したため、家督を継いで勝山藩主となる。藩政では領内整備に尽力する一方で、漢詩を好んで詩集『山水閑音』上下2巻を編纂するという教養に溢れた文化人だった。
安永9年(1780年)3月21日、34歳で死去する。明次の実子で矩次の養子となっていた前次が跡を継いだ。
系譜
[編集]美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。