三浦元精
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 元亀3年(1572年)[1] |
死没 | 慶長18年4月1日(1613年5月20日)[1] |
改名 | 神代元精→三浦元精 |
別名 | 通称:又七郎→又右衛門尉[1] |
戒名 | 悦叟道可居士[1][2] |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 世良氏→神代氏→三浦氏 |
父母 | 父:世良美作守[1]、母:はい[3] |
兄弟 | 元忠(異父兄)、元精 |
妻 | 妙雪(児玉春種の娘)[1] |
子 | 虎法師、元実 |
三浦 元精(みうら もときよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。安芸国の戦国大名・毛利氏の家臣で、長州藩士。異父兄は毛利氏重臣となる三浦元忠。
生涯
[編集]元亀3年(1572年)、世良美作守の子として生まれる[1]。母の「はい」[3]は世良美作守に再嫁する前に松山某と婚姻して松山惣四郎(後の神田元忠、三浦元忠)を生んでおり、後に毛利輝元の側近となる三浦元忠は異父兄にあたる[1]。
天正15年(1587年)2月22日、輝元の加冠状と「元」の偏諱を受けて元服し、神代氏の家督を相続して「神代又七郎元精」と名乗った[4][5]。後に800石を与えられており[1]、天正17年(1589年)8月13日には輝元から「又右衛門尉」の官途名を与えられる[6][7]。
元精の子である虎法師が異父兄・元忠の養子となり[8]、文禄5年(1596年)8月20日に元忠が死去したことで虎法師が家督を相続すると、虎法師がまだ幼少だったため三浦氏の本知行は収公され、虎法師の養育料として元精に3000石が与えられた[1]。しかし、虎法師が早世したため、元精が三浦氏の家督や家財、屋敷を相続し、既に与えられていた虎法師の養育料と合わせて3800石を知行した[1]。
元精は在所を周防国熊毛郡田布施、安芸国賀茂郡西条、安芸国広島と移していったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いによって毛利氏が長門国と周防国の2ヶ国に減封されると周防国佐波郡徳地に817石を与えられた[1]。
慶長18年(1613年)4月1日に長門国萩において死去[1]。享年42[1]。子の元実が後を継いだ。
知行地である徳地の八坂村[注釈 1]にあった性乾寺に葬られて墓が建てられ、萩の海潮寺にも位牌が安置された[1]。
系譜
[編集]- 父:世良美作守(?-?)
- 母:はい(?-?) - 松山某、世良美作守の妻。三浦元忠の母。
- 異父兄:三浦元忠(1555-1596)
- 正室:妙雪(?-1643) - 児玉春種の娘。法名は「釋尼妙雪」。寛永20年11月19日(1643年12月29日)に死去。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『三浦家文書』第182号、三浦氏系図。
- ^ 防長風土注進案 第11巻 1983, p. 302.
- ^ a b 『三浦家文書』第129号、年不詳11月13日付け、はい宛て毛利輝元書状。
- ^ 『三浦家文書』第122号、天正15年(1587年)2月22日付け、神代又七郎(三浦元精)殿宛て(毛利)輝元加冠状。
- ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第156号、天正15年2月22日付 神代又七郎宛て毛利輝元書状。
- ^ 『三浦家文書』第123号、天正17年(1589年)8月13日付け、又七郎(三浦元精)殿宛て(毛利)輝元假名書出。
- ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第157号、天正17年8月13日付 神代元精宛て三浦元忠書状。
- ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第151号、年不詳8月6日付 三浦元忠宛て毛利輝元書状。
参考文献
[編集]- 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第14(熊谷家文書、三浦家文書、平賀家文書)』東京帝国大学、1937年2月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 山口県文書館 編『防長風土注進案 第11巻』マツノ書店、1983年4月。国立国会図書館デジタルコレクション
- 『萩藩閥閲録』巻45「三浦又右衛門」