コンテンツにスキップ

三浦元精

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
三浦元精
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 元亀3年(1572年[1]
死没 慶長18年4月1日1613年5月20日[1]
改名 神代元精→三浦元精
別名 通称:又七郎→又右衛門尉[1]
戒名 悦叟道可居士[1][2]
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 世良氏神代氏三浦氏
父母 父:世良美作守[1]、母:はい[3]
兄弟 元忠(異父兄)、元精
妙雪児玉春種の娘)[1]
虎法師元実
テンプレートを表示

三浦 元精(みうら もときよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将安芸国戦国大名毛利氏の家臣で、長州藩士。異父兄は毛利氏重臣となる三浦元忠

生涯

[編集]

元亀3年(1572年)、世良美作守の子として生まれる[1]。母の「はい」[3]は世良美作守に再嫁する前に松山某と婚姻して松山惣四郎(後の神田元忠、三浦元忠)を生んでおり、後に毛利輝元の側近となる三浦元忠は異父兄にあたる[1]

天正15年(1587年2月22日、輝元の加冠状と「元」の偏諱を受けて元服し、神代氏家督を相続して「神代又七郎元精」と名乗った[4][5]。後に800石を与えられており[1]、天正17年(1589年8月13日には輝元から「又右衛門尉」の官途名を与えられる[6][7]

元精の子である虎法師が異父兄・元忠の養子となり[8]文禄5年(1596年8月20日に元忠が死去したことで虎法師が家督を相続すると、虎法師がまだ幼少だったため三浦氏の本知行は収公され、虎法師の養育料として元精に3000石が与えられた[1]。しかし、虎法師が早世したため、元精が三浦氏の家督や家財、屋敷を相続し、既に与えられていた虎法師の養育料と合わせて3800石を知行した[1]

元精は在所を周防国熊毛郡田布施安芸国賀茂郡西条、安芸国広島と移していったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いによって毛利氏が長門国と周防国の2ヶ国に減封されると周防国佐波郡徳地に817石を与えられた[1]

慶長18年(1613年4月1日長門国において死去[1]。享年42[1]。子の元実が後を継いだ。

知行地である徳地の八坂村[注釈 1]にあった性乾寺に葬られてが建てられ、萩の海潮寺にも位牌が安置された[1]

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『三浦家文書』第182号、三浦氏系図。
  2. ^ 防長風土注進案 第11巻 1983, p. 302.
  3. ^ a b 『三浦家文書』第129号、年不詳11月13日付け、はい宛て毛利輝元書状。
  4. ^ 『三浦家文書』第122号、天正15年(1587年)2月22日付け、神代又七郎(三浦元精)殿宛て(毛利)輝元加冠状。
  5. ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第156号、天正15年2月22日付 神代又七郎宛て毛利輝元書状。
  6. ^ 『三浦家文書』第123号、天正17年(1589年)8月13日付け、又七郎(三浦元精)殿宛て(毛利)輝元假名書出。
  7. ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第157号、天正17年8月13日付 神代元精宛て三浦元忠書状。
  8. ^ 『閥閲録』巻45「三浦又右衛門」第151号、年不詳8月6日付 三浦元忠宛て毛利輝元書状。

参考文献

[編集]