万代寺
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萬代寺 | |
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所在地 | 大阪府堺市北区百舌鳥赤畑町5-705 |
位置 | 北緯34度33分16.6秒 東経135度29分41.3秒 / 北緯34.554611度 東経135.494806度座標: 北緯34度33分16.6秒 東経135度29分41.3秒 / 北緯34.554611度 東経135.494806度 |
山号 | 真龍山 |
院号 | 菩提院 |
宗派 | 真言宗犬鳴派 |
本尊 | 無量寿如来 |
創建年 | 天平元年(729年) |
開山 | 伝・行基 |
中興年 | 寛永元年(1624年) |
中興 | 堯俊 |
札所等 | 南海沿線七福神(毘沙門天) |
法人番号 | 9120105001006 |
万代寺(まんだいじ)は、大阪府堺市北区にある真言宗犬鳴派の寺院。山号は真龍山。本尊は無量寿如来。
歴史
[編集]奈良時代、天平元年(729年)に行基による開山と伝えられている[1][2][3]。『行基開創を明らかにする資料はないが、高林家文書の天正11年の国益御免之状に「此寺之儀、於我等等聊不可有疎略候条」とあり、別格の寺院としての扱いを受けていた』( 堺市歴史的建造物調査報告書 堺の寺社建築 1 堺支所 北支所 97頁9-11行目より引用[4])とある。
真言宗大覚寺の末寺として[1]、また、隣接する百舌鳥八幡宮の神宮寺であり奥の院と呼ばれていた[4]。古くより百舌鳥八幡宮とは関係が深い[4][2]。
南北朝時代には七堂伽藍を有し、足利尊氏が当寺を祈願所とした[4]。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と根来寺・雑賀衆による合戦によって建物や古記書類に至るまでことごとく焼失した[1][4][3]。その後、寛永元年(1624年)に堯俊によって再興された[5]。当時の境内は645坪有り、本堂・庫裏・廊下・寮舎・表門・裏門があった。また、境内の外には観音堂もあった[1]。
明治時代の神仏分離の際、百舌鳥八幡宮の神宮寺・万代寺は残ったが、同じく神宮寺であった重楽院は廃寺とされた。百舌鳥八幡宮の神主と氏子が境内にある万代寺の鐘楼堂と本地堂を処分し、社殿修復費にあてるよう堺県役所へ1868年(明治元年)願い出るが、万代寺より社地借受料として米1.5石を毎年支払うことで解決した[6]。
境内
[編集]文化財
[編集]堺市指定保存樹木
[編集]行事
[編集]- 振る舞いぜんざい(節分) - 厄年の人が餅・小豆・砂糖を奉納し、ぜんざいを炊き参拝者に振る舞う[8]。
前後の札所
[編集]交通
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 井上正雄 (1922年11月). 大阪府全志. 5巻 (初 ed.). 大阪府全志発行所. pp. p=422-423
- 小葉田淳, ed (1971年1月25日). 堺市史続編. 1 (初 ed.). 堺市長 河盛安之介
- 堺市立百舌鳥小学校 (2009年11月8日). 堺市百舌鳥小学校創立記念誌 (初 ed.). 百舌鳥小学校百周年記念誌委員会
- 生涯学習部社会教育課, ed (2000年3月31日). 堺市歴史的建造物調査報告書 堺の寺社建築. 堺支所 北支所. 1 (初 ed.). 堺市教育委員会. pp. 97-98
- 土肥俊夫 (2015年8月). 校区の歴史だ!. 東・北・美浜区編. 3 (初 ed.). 土肥俊夫
- 『大阪 御朱印を求めて歩く 札所めぐりルートガイド』大阪歴史文化研究会