コンテンツにスキップ

一柳末英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
一柳末英
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦8年(1758年[1]
死没 文化7年7月14日1810年8月13日[1]
改名 隼人(幼名)[2]
戒名 要津院殿幽峰宗玄大居士[1]
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺[1]
官位 従五位下土佐守[3]左京亮
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
播磨小野藩
氏族 一柳氏
父母 父:一柳末栄 母:真田信弘[4]
兄弟 末英座光寺為礥石尾氏紹栄武
織田信浮正室、山口弘通正室、多芽、琴松院
板倉勝任養女[3]
末昭末周
テンプレートを表示

一柳 末英(ひとつやなぎ すえふさ[4])は、江戸時代中期から後期にかけての大名播磨国小野藩6代藩主。官位従五位下土佐守左京亮。『寛政重修諸家譜』編纂時の当主である。

略歴

[編集]

5代藩主・一柳末栄の長男として江戸にて誕生[4]

安永4年(1775年)8月15日、10代将軍徳川家治にお目見えする[4]。安永8年(1779年)9月16日、父の隠居で家督を継ぐ[4]。同年12月16日、従五位下土佐守に叙任する[5]。安永9年4月18日、初入国する許可を得る[3]駿府加番となった。

文化元年(1804年)7月5日、病を理由に次男・末昭に家督を譲って隠居し、文化7年(1810年)7月14日に53歳で死去した[2]。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。

系譜

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 一柳貞吉 1933, p. 48.
  2. ^ a b 一柳貞吉 1933, p. 47.
  3. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.160。
  4. ^ a b c d e 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.159、『新訂寛政重修諸家譜 第十』p.159。
  5. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.159-160、『新訂寛政重修諸家譜 第十』pp.159-160。

参考文献

[編集]

外部リンク

[編集]