一柳末英
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦8年(1758年)[1] |
死没 | 文化7年7月14日(1810年8月13日)[1] |
改名 | 隼人(幼名)[2] |
戒名 | 要津院殿幽峰宗玄大居士[1] |
墓所 | 東京都渋谷区広尾の祥雲寺[1] |
官位 | 従五位下土佐守[3]、左京亮 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 播磨小野藩主 |
氏族 | 一柳氏 |
父母 | 父:一柳末栄 母:真田信弘娘[4] |
兄弟 |
末英、座光寺為礥、石尾氏紹、栄武、 織田信浮正室、山口弘通正室、多芽、琴松院 |
妻 | 板倉勝任養女[3] |
子 | 末昭、末周ら |
一柳 末英(ひとつやなぎ すえふさ[4])は、江戸時代中期から後期にかけての大名。播磨国小野藩6代藩主。官位は従五位下土佐守、左京亮。『寛政重修諸家譜』編纂時の当主である。
略歴
[編集]安永4年(1775年)8月15日、10代将軍徳川家治にお目見えする[4]。安永8年(1779年)9月16日、父の隠居で家督を継ぐ[4]。同年12月16日、従五位下土佐守に叙任する[5]。安永9年4月18日、初入国する許可を得る[3]。駿府加番となった。
文化元年(1804年)7月5日、病を理由に次男・末昭に家督を譲って隠居し、文化7年(1810年)7月14日に53歳で死去した[2]。墓所は東京都渋谷区広尾の祥雲寺。
系譜
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第六百四
- 『寛政重修諸家譜 第四輯』(国民図書、1923年) 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『新訂寛政重修諸家譜 第十』(八木書店、1965年)
- 一柳貞吉『一柳家史紀要』1933年 。