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一合まいた

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

一合まいた(いちごうまいた)は、香川県高松市を中心に伝承される盆踊り唄である。

歌詞

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数え歌形式で、蒔いた種籾の豊作を願う歌詞である。香川県以外に、山口県鹿児島県でも採録されている。

高松市木太町
蒔いた籾の種 その桝あり高は(ドッコイショ)
と一(ソラヨーホイヨーホイヨイコラセ)
アー ままよままよは 白歯の時よ 白歯染めたらチョイとままならぬ
アー度胸で売ろうかやんちゃで売ろうか 男こうもうてもチョイト度胸で売ろ

 1950年採録 [1]

坂出市本町
ソラヨーホイヨーホイヨーイヤナ
一合蒔いた籾の種 その桝あり高は ドッコイセ
一石一斗一升一合と一勺 
ソラヨーホイヨーホイヨーイヤナ
二合蒔いた籾の種 その桝あり高は 二石二斗二升二合と二勺

※以下、八合まで省略

九合蒔いた籾の種 その桝あり高は 九石九斗九升九合と九勺

 1969年採録[1]

山口県美祢郡大嶺町中村
一合蒔いた麦種のそのあり高は ヨイヨイ 
一石一斗一升一合と一勺 
アラヨーイヨーイヨーイヤナー アラサコラサ

 1950年採録 [2]

鹿児島県揖宿郡開聞町十日入野
アー一合蒔いた麦種のそのあり高は コラセ 
一石一斗一升一合と一勺 
アレワヨーヨー イヤセ
丸くなれ丸くなれ まん丸くなれ 十五夜の月のごとまん丸くなれ
角(かく)になれ角になれ 真っ角になれ 米屋の桝のごと真っ角になれ

 1963年採録 [3]

解説

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一般的に伝統的な盆踊りの歌詞は先祖の霊や新仏を供養するものか、江戸時代中期以降に瞽女など旅芸人の口を通じて伝播した語り物に由来するものが多く、数え歌形式の「一合まいた」は盆踊りの歌詞としては珍しいものである[4]

一方で長野県埴科郡松代町の祇園祭の「大門踊り」で、以下の歌詞が伝承されていた[5][6]


松原越えて やれ 今年やよい年
穂に穂が咲いた
黄金の桝で 米をば計る
一番目の早乙女の計りし米は
一万石 一十一斗 一升 一合 一勺 一才まで
計り納めて 二番目に渡した
二番目の早乙女の計りし米は
二万石 二十二斗 二升 二合 二勺 二才まで

※以下、数字を順次増していく

十番目の早乙女の計りし米は
十万石 十十斗 十升 十合 十勺 十才まで
計り納めて 一から十まで やぁら目出度い
松原越えて…

宮城県刈田郡蔵王町には、豊作祈願の踊「こくだん舞」として以下の歌詞が伝わっていた[5]

コラ一番目の 一助なんどは 石計りの名人で
一石一斗一升 一合一勺まで 計り清めて
メンメンコロリと ころばしかけたも
コックリこなたの こくだん米
こくだん舞を みぃさいな
コラ二番目の 二助なんどは 石計りの名人で
二石二斗二升 二合二勺まで 計り清めて
メンメンコロリと ころばしかけたも
コックリこなたの こくだん米
こくだん舞を みぃさいな

※以下、10番まで量を増やしていく

恐らくは数え歌形式で穀物の量を計る豊作祈願の予祝唄が中世期には全国的に分布していたものと見られる。実際、山口県美祢郡で採録された上記の「一合まいた」は、苗代への「種蒔き唄」として婦人会に伝承されていた。

讃岐国においても「一合まいた」は盛夏、稲の開花時に執り行われる「豊年踊り」として唄い踊られていたものだった。だが江戸時代後期以降、豊年祭は時期的に近い盆行事に徐々に吸収され、同時に信仰心の希薄化から盆踊りが単なる「娯楽踊り」に変貌していくにつれ、仏教的ではない数え歌形式の「一合まいた」が盆踊り唄として取り入れられたと考えられる[7]

脚注

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出典

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参考資料

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  • 日本放送協会『日本民謡大観(四国篇)』日本放送協会、1994年。ISBN 978-4140392317 
  • 日本放送協会『復刻 日本民謡大観 九州篇(南部)・北海道篇—現地録音CD解説』日本放送出版協会、1994年。 
  • 日本放送協会『復刻 日本民謡大観 中国篇—現地録音CD解説』日本放送出版協会、1993年。 
  • 日本放送協会『復刻 日本民謡大観 四国篇—現地録音CD解説』日本放送出版協会、1994年。 

関連項目

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  • さぬき高松まつり(高松市の夏祭り。現代風にアレンジされた「一合まいた」の総踊りが執り行われる)